本当に人の想いは現実化するのか。
さて、人の想いは現実を創るという人がおります。でもそれは本当でしょうか。だって私達の人生を振り返ると、想いとは正反対のことばかり起こっているように思われる。願い事なんか叶った試しがない。想えば叶う。なんて出鱈目です。そのようにも思います。
しかしやはり生きている人間が想う力というのは、神様並に力を持つ。多くの人はそれを無駄に使っている。せっかく最高馬力のエンジンを積んだ車なのに、アクセルとブレーキの両方を踏んでいるから。キーキーともの凄い音をたててタイヤから煙あげてるのに、ちっとも前に進まない。
だからちょっとしたコツさえわかれば、きちんと想いのエンジンを活かすことは誰にでも出来る。であろうという仮説。
そして世の中には頭の良い人達もいるようで。漏電している多くの大衆の人達の想念を利用する人もいる。どんな人でも神様並に創造する力を持つ(仮説)のだから。彼らは自分たちの人生では「叶わないことばかり」という人生かもしれないけれど。本人たちにも気づかれないように、上手に彼らの創造の力を利用する。そういう人達もいる。
アクセルとブレーキの両方を踏んでいる状態。
なぜ私達の人生では、叶わない望みばかりなのか。一つくらいは叶ったっていいじゃないか。という場合、人はアクセルとブレーキを両方踏んでブイブイ言わせている。
この世の陰陽の法則(仮説)。
・与えるものは与えられる。
・手放すものも与えられる。
・奪うものは奪われる。
・執着するものも奪われる。
だから欲しいものがあれば、それを手放せば与えられるのであります。欲しい欲しいと執着するほど逃げていく。
欲しい欲しいとアクセルを踏んでいるつもりでも、執着というブレーキを踏んでいるから叶わない。
嫌なことも同じ。嫌だ嫌だと逃げている間は追いかけてくる。逃げるのは止めた。全部まるっと呑み込むと腹を括ると消えていく。
それは正反対のことが必ず時間差で発生するから。
どうしてそんな逆になるの?
それはこの宇宙の成り立ちの仮説。言葉でどれだけ伝わるかわかりませんが。
この世界は陰と陽が同時に生まれる。それぞれ真逆が同じ量だけ。だからたとえば「与えられる」という事象が発生したら「失う」という真逆の事象も発生する。
ただしそれは時間差を伴う。
だから「与えられる」事象が発生したら、そのあとは必ず「失う」という事象が起きる。それは一気に来るのか、小出しで長い期間起きるのかは、それぞれ。でも失う総量は、与えられた総量と同じ。
そしてそれはお金で与えられたなら、同じようにお金という形で失う場合もあるし、社会的信用とか本人の健康など別のもの形で失われることもある。等価交換。
そして更に「失う」とは、自らの意志に反して「失う=奪われる」場合もあるし、自分の意志で積極的に「失う=手放す」こともある。
陰陽の仮説の視点では「奪われる」も「手放す」も同じ等価なんだ。「失う」と言う視点では同じ。
だから賢人と呼ばれる人達は、どうせ失うなら、奪われるのではなくて自分から手放すべき。と教える。何を手放すかは自分で決められる。自分の人生を自分で制御するということ。ロボットから生きた意志の人生となる。
●自分の願いが叶っても叶わなくても「まっいいか」ぐらいの気楽さでいくと、今までおおよそ現実化していってます。やはり執着するとよくありません。必ず己の首を絞めて呪縛するようになっていきます。執着は粘着質のある鳥もちのようなもの。こればっかりはよろしくない。もし執着したものを手に入れても、それが不幸の始まりになっていく場合も多々あります。
●興ちゃん。高タンパク質、低糖質の品々。各種チキンは昼食用、メチャ嬉しいです。今日の夜は醤油豆で糖質ゼロビールで一杯やります。サンキューです。