「意思という光」
禅宗の道元さんにしても、浄土真宗の親鸞さんにしても、日蓮宗の日蓮さんにしても、久遠奈(永遠)な一つなる究極の存在を、全員が光の存在だと表現しています。要は、この世には光しかないのだと。
釈尊にしても、亡くなる時の遺言は、
「自燈明(自分の心の良心)の光の気配を頼りにして、大きなサイのように突き進め」でした。
動物のサイは、視力が悪くて先が見えないのです。見ようとしても、風景が見えません。だから真っ直ぐに、ためらうことなく突き進みます。
人間も自分の思惑の先行が見えません。
この時、様々な未来への不安があっても不確かな先行きを心配しないで、自分の良心が示す方向へ真っすぐに歩いていけばよいということです。
自分の良心の光だけを頼ります。自分の良心の光を見間違わない秘訣は、自分以外への「思いやり」の視点を持つことです。
思いやりは、重いヤリと変化して、どんな障害も打ち砕くのです。
こちらの光といいますのは単なる比喩や例えではなく、物理的にも本当に光なのです。
この現実界の真相は、大いなる意思が光として報謝された時、照らされた部分が物体化したと感じます。
ちょうど歯科治療でも使用されるような、液体や柔らかい物質に特赦なライトを放射しますと、その柔らかい物質が硬くなる感じです。
ここで大切なことは、私たちも常に光を発射しているということです。脳波のように自分が心で思うことが、その内容に応じた光を発射しているのです。自分が思う光が、後から時間差をおいて未来に物質化します。
ただ、この反応が分かりにくいので、何を思っても関係ない、良いことを思っても悪いままだ、などと見捨てている人が多いいです。
人間は、日に何度か数十秒でもよいですから、仕事をしながらでも(決して瞑想や滝行でなく)心が静寂する時を感じることができれば、自分の思いの実現化が起こり始めます。心や体の素粒子レベルでの安定時間を持つことが、自分の良心が欲することを実現化させます。
あくのでも日常生活の中での瞬間・瞬間にカギがあります。生かされている感謝をしていく中、静寂(良心)は訪れています。 【自分を大切に育てましょう】より抜粋転載
私は過去数えきれないぐらい以上の体験を繰返してきました。
この本を読みながら「各宗教家の言われる光とは?釈尊の「自燈明法燈明」の燈明とは?そういうことであったのか・・」と、とても納得したことを思い出します。
実は私の心が静寂(良心)の時は、このブログを書く時です。
ブログを書きながら多くの縁のある人たちの顔が浮かんできます。そしてその一人ひとりが他の人へ思いやりある生き方をすること、そういった気づきが起こることを願います。
そうすると、必ずそういった事象(表面的な良い悪いは別として)が起こって、その人を思いやりや愛情の方向へ導いてくれます。
これは個人だけでなく会社や組織も同じです。
意思という光が、形を持つ。
その通りだなあ・・・と、とっても腑に落ちます。