「気づく人になる」
『世の中で成果を上げる人と
そうでない人の差は、むだがるか、ないか。
無駄をなくすためには、気づく人になることが大切。
気づく人になることによって、無駄がなくなる。
その「気づき」をもっと引き出してくれるのが
トイレ掃除です。』
気づかない人は、自分も周りも不幸にします。
人はよく「大変だぁ」という場面に遭遇します。
しかし、「大変」になってから対処しても、
もう手が付けられません。
「大変」になる前に、必ず「小変」があるはずです。
この「小変」が気づきに相当することだと思います。
つまり、気づくということは、「大変」になる前に
知るということです。
結果が出てみなければ分からないのでは遅すぎます。
気づきの段階で対処すれば、もう、手のつけられない
「大変」な事態になることはなくなります。
気づきは、「良心」からのメッセージが込められて
いるように思います。それだけに、気づいたことを
迷うことなく、次から次に処理していくことが
何より大事なことなのです。
気づきを一つひとつ処理する中で、
さらに気づきのアンテナが研ぎ澄まされていきます。
そうしますと、益々人生がよくなるわけです。
「掃除道」著鍵山秀三郎(亀井民治編)より抜粋転載
正直言って
気づく人になるというのは
日々トレーニングしておかないと
難しいと思います。
何故ならば、
いかに「まずい」場面になろうとも、
常に客観的なもう一人の自分が
舞台の上で演じている自分を冷静に見ている
そういう感覚がないと、
この「気づき」、
つまり良心からのメッセージは
キャッチできないからです。
多くの人が「まずい」場面に出合うと、
気が動転して、心の中心がプレ、
わけがわからなくなってしまいます。
こうなれば気づきどころか、
自分自身が自分の動揺した感情に
引っ張られ、「それはないやろ・・」
という間違った判断をしてしまいます。
何もない平穏な時は
みんないい人なのです。
しかし、「まずい」場面になればなるほど
その人の本性が出てしまうのです。
これは日常生きている座標軸の中心が
良心なのか、自我なのか
一瞬で圧倒的に自分が生きていた方へ
流されたり引っ張られていきます。
だからこそ、
日常生活から、
良心と共に生きることを意識して
決意行動という生活をしておかないと、
なかなか「いざ」という時は
難しいのです。
中心がとても弱い
ということは良心が自分に対して
オッケーを出していない生活、
生き方をしているということなのです。
私は正直言って
人の何十倍?それ以上「直感」「閃き」の「気づき」
は長けていると思います。
また、逆に「まずい」という場面になればなるほど、
総合格闘技のように力を発揮することが出来ます。
これは過去をずっと
振り帰ってみれば、
「問題可決」としてはミクロ的にマクロ的にも
一番良い判断をしている
ことが分かるのです。
周りの人がら見れば
そう見えなくても、直接因縁と複合因縁を絡ませて、
その中で今必要な判断とベストな行動を
しているということなのです。
ちょっと難しいなあ・・この説明は。
「気づき」が何故どんどん起こってくるのか?、
それは日常から良心に従って
「よりよく生きるためには」「よりよく進むためには」
と、自身に問いを発し続けている
からだと思います。
つまりいつも「問題意識」を
持って日々を生活してからなのです。
しかし、
これらは人から教わったものではなく、
自らが気づいていこうとする
問題意識の姿勢を持ち続けることなのです。
これも「凡事徹底」です。
いざという時には、
教わって、覚えたことはまったく
役にたちません。
常に自分の課題に対して
自分の良心に対して
「問い」を出し続けることが大切です。
「これでいいのか?」という問題意識を
持ち続けるということです。
これは「危機管理」も同じですね。
常に「最悪の事態を想定」して、
どうそれに対して「向かい合ったらいいのか}
問い続け準備をしてやるだけやり尽くし
後は仏さまに任せるということでした。
それとやはりこういった知識を入れ、
日常の中でいろんな経験をしておく
ということです。
知識と経験はいざとなったとき、
「気づき」のヒントになってくれる
ことは多いいです。
そうやって本番では
自ら気づいたことだけが、
役に立ちます。
気づく体質になるには、
そういった日々のトレーニングがあってと
時間がかかります。
問いや問題意識がないと、
ぼ~~と生きていると、
気づきも
答えも生まれてきませんから。
トイレ掃除は沈黙の中で
自分を問うていくには
とてもよい場所です。
トイレに限らずいろんな場所で
自分を問うていき、
気づくを一つ行動すれば、
また新たな気づきが研ぎ澄まされて行く
これは本当ですね。
天変地異にコロナ禍、
これからも今まで以上にいろんな問題が
目の前に起きてくると思いますが、
本当の楽天主義者、ポジティブシンキング
とは、「常に最悪の事態を想定」し、
それに対して対処できている人、
それでダメなら流れに任せる
という腹の括れた人の事を言います。
なるようになる、
という気持ちになれるのは
良心が準備をして危機管理に意識が
向いているその人にオッケーを出している
ということなのです。
ここを勘違いしないで
横着しないで下さいね。
※カメラマンの加藤さんから私が住職を務める長松寺のCDが送られてきましたので、その一部を今回掲載してみました。こんなお寺です。そしてこんな認定こども園です。
●長松寺のこの写真を見て、NCのスタッフたちが「ああ、いいですねえ・・・。今年は行けないんですよね。生きたいですねえ・・長松寺へ。別世界ですよねえ・・・穏やかなあの場は」と言ってくれてました。
来年の夏はコロナ禍もおさまっていると思うから、伊藤さん親子も、大留ちゃんも、来れる人は夏の法要に来たらいいです。
伸ちゃんもそのぐらいになればなんとか普通の状態に戻っていると思うしね。