2009年7月の日記

7月31日「人生の長期テーマはやらなくてもいいこと」 (2009.07.31[Fri])

僕が公民館で学んだことです。
当初僕が公民館勤務をしていたときは、
午前中に来る非常勤の館長以外に周りに誰もいませんでしたから、
掃除を見に来る人はいないし、
チェックされることもない。
しかも、
一日中つかわれなくてきれいなことも多いから、
さぼっても手を抜いても分かりません。
そんな中で怠け心と戦わなくてはならない。
それが一番辛いことでした。
そして、
禅宗の雲水さんと話したとき、
自分たちもまったくその通りだと、
妙に共感しあったことを覚えています。
「しなくてもいい」という状態に置かれて、
「自分の意思で何かをし続ける」ことができるか。
これが人生における「長期のテーマ」だし、
仏さんからのお試しだろうと、
過去の自分を振り返ってみればよく分かります。
短期や中期のテーマは分かりやすいのです。
これは必ずやらなくてはならないことが、
目の前に現れてくるわけですから。
ただ「長期のテーマ」、
実はこれがその人にとっての本当の「テーマ」なのですが、
これは決して「やらねばならない」というものではなくて、
自分の意思で「やろう」と決めることです。
人生を味わい深いものにするためにも。
母は日々、自分の長期テーマとして日記を書き続けた。
それもこと細かく。
そして日々の営みを、
また出会いや出来事を感じていったのでしょう。
だから人間的に魅力があったんだと思いますね。

7月30日「何があっても前向きに受け止める」  (2009.07.30[Thu])

以前、
同級生のある先生が、
「生徒が好きになれないから先生を辞めたい」
と言ってきたとき、
「生徒について気に入らないところってどこ?」
と聞いたら、
「もう腐るほどあげられる」
と言ってました。
「じゃあ、評価すべきところや、ほめたいところは?_」
って聞くと、
「ない」
と言ってました。
「とにかく辞めるのは一年延ばして、  
とにかく生徒一人ひとりのいいところにスポットを当てて、
書き出したら何か変わるかもよ。それからでいいじゃん、辞めるのは」
一年後、
同級生の先生は、
生徒から愛される素晴らしい先生に変身してました。
人のアラを探すのは簡単ですが、
僕たちはもっと素敵なもの、
素晴らしいものを探すためにこの世に生まれてきたのです。
彼は僕の言ったことを素直に聞いてみて、
その真実を逆に彼から教えてもらったわけです。
素直って大切ですよ。

7月29日「ひたすら仕事をすることに意味がある」 
(2009.07.29[Wed])

曹洞宗の道元が、
中国での修行中、
ある僧にこんなことを言われました。
「道元さん、ずいぶん熱心に本を読んでるいるが、何の本ですか?」
「いにしえの禅僧の悟りを勉強しています」
「それを読んで何の役に立つのですか・」
「日本に帰り、人々を教え導くためです」
「では、それは何のためになるのですか?」
「人々を救うことになります」
「つまるところ、それは何のためですか?」
ここで道元はハッと気づきました。
「目標をかなえる手段として修行するのではない。
自分が生きる意味に決着していないのに、人に生死の解決を教えることはできない」
こうして修行とは「誰かのためにやる」なんて格好いいものではなく、
今ここをどう生きるかであると知ったのです。
「修行」を「仕事」「信用」と置き換えてもいいでしょう。
仕事でも、
「認められたい」とか「儲けたい」という打算があると、
なかなかうまくいきません。
「ただひたすら本気で仕事をすること自体に意味がある」
道元が言ってるのは、
そういうことなのです。

7月28日「押すとすぐ押し返してくる人は心が弱い」 (2009.07.28[Tue])

「丈夫の気を負って、小児の心を抱く」
この言葉は臨済宗の僧、釈宗演の言葉です。
「勇気のある男の気力を持ちながらも、
子どものように純真な心を持って行動せよ」
ということです。
つまり、
人間は「勇気と純真さを兼備しなさい」と言ってるのです。
これは修羅場での立ち回りの極意なのです。
「決めたら進む」だけでなく、
「退く」ことも大切です。
子どものような純真さとは「無理なものは無理」「怖いものは怖い」
「強いものは強い」と、こだわりをもたずに自分の心に正直になる、
ということです。
この心さえあれば、
どれほど頭の中がカッカしても冷静になっていくものです。
幕末も 日本一の剣豪とうたわれた山岡鉄舟が、
清水次郎長に「けんかで負けない極意」を訪ねたことがありました。
次郎長は、
「まずは相手の強さをはかります。
刀を抜いて相手と切っ先を合わせたときに、
ちょっと押してみるんです。
そのときにすぐ押し返すやつは弱いやつです。
舞い上がって冷静さを失っているから、
即座にぶった切ってやります。
だけど、
押してやると押されるままに引っ込んでいくやつがいる。
こんなやつは強い。だから、
なりふりかまわず走って逃げちまいます」 と答えました。
次郎長は修羅場にのぞんで誰もが頭に血がのぼる状態のときでも、
自分の心に正直になる純真さを持っていたから、
本当に強かったのです。

7月27日「好きになったとき、実はもう成功している」 (2009.07.27[Mon])

真言宗の空海は「選択とは好きになること」だと言ってます。
僕たちの日常は「選択」に終始しています。
「何を食べるか」といった身近な「選択」から、
人生にはあらゆる「選択」が待っています。
何を選ぶかはその人自身の心の方向によって決まります。
お釈迦様はこうおっしゃっています。
「最初に心に思ったとき、
つまり、
好きになったとき、
実はもう成功している」と。
それを、
「初発心時便成正覚しょほっしんじべんしょうしょうがく」
と言います。
これは、
好きこそ物の上手なれということで、
目の前の仕事を徹底して好きになることによって、
仕事がいきいきとなっていく、
成功していくってことなのです。

7月25日「憧れを持ち続ければ願いはかなう」 (2009.07.25[Sat])

「人々が仏様を拝めば、
仏様も人々をご覧になる。
人々が念仏をとなえれば、
仏様はこれを聞いてくださる。
人々が仏様を信じて念仏をとなえればね
仏様も人々の浄土往生を念じてくださる」
これは、浄土宗の法然上人の言葉です。
「無量寿経」というお経には、
阿弥陀様がまだお悟りを開く前に立てた四十八の願い、
四十八願が書かれてます。
この願いの要である第十八願には、
「私が悟りを開いて阿弥陀仏となったときには、
私の浄土に往生したいといと願う人が真実の心で、
南無阿弥陀仏と私の名を称え、それを続けるならば、
誰でも往生させましょう。
もし、念仏を称える人々を一人残らず救えないようならば、
私は仏にはなりません」 とあります。
この誓いを「弥陀の本願」と言います。
法然上人は、憧れを持ち続ければ願いは叶う、
と言ってます。
たとえば、
赤ちゃんにお母さんが「おかあちゃんよ」と何度も何度も呼びかけます。
そのうちに子どもは「おかあちゃん」とお母さんを呼び出します。
何度も何度も、
そうやって呼び合っているうちに、
お互いに愛し愛されていることを確認していきます。
それは母と子がお互い憧れを持ち続けているからなのです。
法然上人が言う、
「なんまんだぶつ」とは、
私と阿弥陀様(まことの親)との、
お互いの心が通じ合うということです。
また、
法然上人は、
何に対しても憧れを持ち続けるということによって、
自他共によろこべる願いは実現するといわれてます。
素晴らしいもの、尊いものに憧れ続けるって、
実に大切なことです。
僕は阿弥陀様に憧れ続けています。

7月24日「怖くなったら仏様を思い出しなさい」 (2009.07.24[Fri])

お釈迦様の時代の話です。
インドの修行僧は、
雨季が明けるとともに、
托鉢をしながら布教の旅に出ます。
山中で野宿することもあるので危険な修行です。
そのために恐怖心に襲われる者も大勢いました。
布教の旅に出る弟子たちを送り出す際に、
イエスは「汝二人して行け」と言ったそうですが、
お釈迦様は「一人で修行に出なさい」と言いました。
そして、お釈迦様はこう言いました。
「旅の途中で恐怖心に襲われたら、
私を思い出しなさい。
私を思い出せなければ、
私の言葉を思い出しなさい。
私の言葉を思い出さなければ、
仲間を思い出しなさい。
そうすれば恐怖心を取り除けるであろう」
これは、
「仏、法、僧の三宝に憧れる」という仏教の基本を言っています。
私を思い出せ(仏)、
私の言葉を思い出せ(法)、
仲間を思い出せ(僧)、
というわけです。
これは、
仏の子であることを思い出せば、
いつも仏に守られていることがわかるよって、
ことです。
これほどの安心はないからです。

7月23日「 「わるいのう」と言うから、「ええのう」と返ってくる」 (2009.07.23[Thu])

念仏者で有名な、
源佐という浄土真宗の念仏者が、
こんな言葉を残しています。
『「わるいのう」を出せば、
「ええのう」がもらえる。
「ええのう」を出すからみな取られてしまう』。
つまり、
謙虚になって「わるいのう」と言えば、
人から「ええのう」と言ってもらえる。
しかし、
自分は頑張ったから、
相手も「ええのう」と言ってくれるだろうと思っていると、
相手はそうは言ってくれないもんだ。
だから、
「ええのう」が取られっぱなしだというわけです。
これはですねえ、
源佐は、「謙虚であれ。頑張ったことを吹聴するな」
と言ってるのです。
自分はちゃんとやってるつもりでも、
相手から見ればそうでない場合は多々あります。
どんなに頑張っても、
自分は「凡夫(ぼんぶ。たいしたことのない人間だ)」と受け止めておけば、
傲慢になることはありません。
人が傲慢になって回りから嫌われるのは、
「自分はたいしたもんだ」と思っているからです。
「自分はたいしたことはない」と思っている人ほど、
謙虚になっていけるのです。
それを親鸞聖人は、
悪人の自覚と言われました。
自己否定ではなく、
自分が「たいしたことはない。未熟である」と思えば思うほど、
心が軽くなって、仏様は救ってくださるのです。
「すごいじゃろう」とたいしたものであると思えば思うほど、
心が頑なに重くて救いようがない、ということなのです。
お釈迦様は「軽き油は浮き、重き石は沈む」とおっしゃられています。
やはり重いのより、軽い心のほうがいいよね。

7月22日「悪いこと事、困ったことは思わないこと」 (2009.07.22[Wed])

日光東照宮には
「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿の彫刻があることを、
皆さん知ってますよね。
実は、これは人間の「理想の生き方」を示してるんです。
両手で目・耳・口をふさいだ三猿は、
子ども時代に実践すべき生き方を表現してます。
それは「純粋なときには、 悪事を見ざる、聞かざる、言わざるがよい」
という教えを表してるのです。
これは心の中の無意識である潜在意識に、
「不安」や「恐れ」などがインプットされてしまうからです。
これは大人もそうですね。
テレビで、
批評をしたり批判したり、
あまりポジティブでないテレビの番組を見ていると、
人間は無意識にマイナスがインプットされて、
結局は「不安」や「恐れ」が強くなっていくのです。
つまり、
たとえ悪事を見たり聞いたりしても、
悪事を考えないことこそ大事なわけで、
考えなければ行動に移すことも有り得ません。
「思わざる」ことは、
難しいことではありません。
三猿が目や耳を手で隠すように、
悪事やマイナスのことが近寄ってきたら、
自分の心を手でそっと隠します。
そのためには、
「私は仏の子だから」という「仏の道」を行けばいいのです。
そうすれば、心が悪に染まることもありません。
他人や、
周りのマイナスの環境に振り回されずに、
仏様と共に生きる道を歩みたいものですね。

7月21日「幸せは人に分ければ分けるほど大きくなる」 (2009.07.21[Tue])

「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」。
これは天台宗の開祖、最澄さんの言葉です。
私たちは、仲の良い、同僚や友人、
家族が困っていたら手を差し伸べようとします。
ただ、見ず知らずの他人が困っていたら、ついつい「まっいいか」と、
見過ごそうとします。
最澄さんは「それでは駄目だ。見ず知らずの人でも、
目の前にいる人は仏様がご縁を持たせてくれた人です。
わけへだてずに助けないさい」と言われます。
それが、どんなに嫌な人でろうと、
嫌な上司であろうと、
他者の喜びをわが喜びとし、他者の痛みをわが痛みとする。
「無縁の慈悲」を実践できてこそ本物の利他だと明言しています。
これは、常に目の前のご縁を大切にし、好き嫌いや損得を超えたところに、
本物の慈悲があるということを教えてくれているわけです。
常に、
好き嫌い、
損得の心で人と接してないか、
日々の日常から感じ取っていけばいいですね。

7月20日「相手に合わせる力を愛という」 (2009.07.20[Mon])

「愛とは、相手に合わせる心である」これは、
鎌倉時代の臨済宗の僧侶、無住が言った言葉です。
恋愛中なら、お互い相手に合わせることもできますが、
熱もさめてくると、相手に合わせることができなくなります。
もちろん無性の言う「愛」とは、夫婦ばかりではなく、
親子愛、師弟愛、友愛など、さまざまです。
また「愛」とは、自分の立場を捨てて、
相手と同じ境遇になって協調できる心です。
社会生活で言えば、
立場が上の者や専門家が、
下の者や弱者守るということです。
お釈迦様は「六法礼経」というお経で、
六法礼とは、東西南北、下上を拝むということで、
それに六種類の人間関係を当てはめています。
「親子」「師弟」「夫婦」「友人」「上司と部下」「聖職者と衆生」です。
すべて「同時の心」である、
相手と同じ境遇に立って相手の心と協調しなさいと教えられます。
これすなわち人間関係の基本なりと。

7月18日「他人を幸せにしない限り、人間の幸せは有り得ない」 (2009.07.18[Sat])

お釈迦様は、
「自分が幸せになりたいと思うのなら、
まず人を幸せにすることだ。
人を幸せにしない限り、
自分の幸せはあり得ない」
と教えられました。
そして人を幸せにする心の持ち方として「四無量心」を説かれました。
四無量心とは「広大で計り知れない四つの心」ということです。
「慈」人を幸せにしたいと思う心。
「悲]人の悲しみをともに悲しむ心。
「喜」人の喜びをともに喜ぶ心。
「捨」人に施した恩も、人から受けた害も忘れ、一切の報い、とらわれを捨てる心。
この四つが、四無量心です。
つまり、利他の心を持ちなさいということです。
「利他の心」とは、「人への配慮」です。
たとえば、赤ちゃんが泣き出すとお母さんは仕事の手をパッと止めて、
赤ちゃんをあやしますよね。赤ちゃんへの配慮、これが利他の心です。
また、仕事でも自分のことばかりに夢中になるのではなくて、
周りに困った人がいたら「大丈夫、手伝おうか」という配慮、
これが利他の心です。
利他の心とは自己犠牲ではありません。
他人が救われると、
同時に自分も気持ちよくなれるので自分の喜びでもあるのです。

7月17日「死んで棺桶に入ったつもりになると正しい回答ができる」 
(2009.07.17[Fri])

「死んでから、人生を考えてみれば、どうでもよかったのである」
この言葉は、
昭和代表する曹洞宗の禅僧、
沢木興道(さわきこうどう)さんの言葉です。
これは、
と゛んな悩みでも、
死んで棺桶に入ったつもりになって自分を見つめれば、
「そんな悩み、どうだっていいじゃないか」
ということばかりだと喝破しているわけです。
つまり一度死んだ気になってみると、
当事者ではなくなるので、
本当に大切なことがはっきり見えてくるということなのです。

障害を持った子の母親が、
「なんで、うちの子だけが・・」
とことあるごとに泣いていました。
ところが、
妹が生まれてからそのお母さんは泣かなくなりました。
幼い妹が障害のあるお姉ちゃんを無条件で受け入れているのを見て、
お母さんは、
人と比べることの愚かさに気づいたからです。
人生で、
どうでもいいものと、
大切なことがはっきり見えたんですね。

7月16日「結局、徳がある人が得する人」 (2009.07.16[Thu])

「人のあやまちをいうほどのものは、わが身に徳なき折りのことなり」
これは、鎌倉時代の華厳宗の明恵上人さんの言葉です。
この言葉の後には、
「徳というは得なりとて、徳を好む人にありなり」と続き、
「人の過ちや欠点をあげつらう人は、
自分自身に徳がない人です。
徳とは、得と書き、
人間らしさのことですから、
得を得るのは、
温かい人間らしさを好む人である」
ということですね。
徳とは、広い意味で「人を援助できる大きな心」と言えるでしょう。

さて、
幕末から明治にかけて福岡県の浄土真宗の万行寺の住職で、
七里恒順(しちりこうじゅん)という人がいました。
この人は寺に泥棒に入った男を、
出納係として寺に置いたというエピソードがあります。
総代たちは、当然猛反対したのですが、
強引に押し切ってしまいました。
しかし困ったのは出納係を任された当の本人です。
毎日、
賽銭やお布施を預けられ、
誰も見ていない部屋で金勘定するのですから。
盗みというのはクセですから、
その気持ちを抑えるのは毎日が苦行です。
住職が自分を信じてくれているだけに、
苦しみは大きかったのです。
結局彼は、死ぬまでお金を盗むことなく、
与えられた仕事を真っ当しました。
彼はなぜ自分の悪しきクセを克服し、
自分に勝つことができたのか?
それは住職が自分を信じてくれていたからなのです。
人の欠点をあげつらうのは、
自分に徳がないからです。
言い換えれば、
自分に自信がないからです。
それよりも、
人を信じて包み込む、
そうすれば、
信じられた人は、
信じられたその人に応えようとする。
疑うということより、
相手の「いのち」を信じ、
見守っていくという仏の大悲の心の尊さを、
この七里住職は教えてくれています。
仏法とは、 
「学仏大悲心」です。
仏の大悲の心を学ぶということです。

7月15日「他人の欠点が見える分だけ、自分にも同じ欠点がある」 (2009.07.15[Wed])

「けんかしないでくらそうじゃないか、
末はたがいにこの姿」 この言葉は、
とんちの一休さんとして親しまれている室町時代の禅僧、
一休宗純(そうじゅん)さんの言葉です。
この言葉の前に骸骨の絵を二つ書いていました。
これは単純に、
「けんかをしてもしょうがないじゃないですか」
と言ってるわけではなくて、
けんかとは、
お互いの煩悩(欲望やエゴ)のぶつかり合いであって、
一休さんはそこに、
人間の凡夫としての愚かさや悲しみを見ていたわけですね。
二つの骸骨の意味するところは、
一つは自分自身。
もう一つはけんかをしている憎らしい相手です。
つまり、
この絵は「お互い死ぬということから、ものごとを見ましょうよ」と言ってるのです。
夫婦、
親子、
嫁姑、
上司と部下、
近所同士などなど、
人間関係には、
いろんないさかいがありますよね。
ただ、
一休さんは、
「お互いに行く末はこんな姿(骸骨)になるんだよ。
死ぬんだよ。
そう思えば、
今のいさかいなんて実に愚かなこと、
悲しいことだよね」
と言ってるわけです。
僕たちは自分自身の欲望、
プライド、
勝手な都合、
思い込み、
見栄、
押しつけの正しさなどを なかなか認めたくないんです。
そのことを考えること、
自分を問題にすることなんてさらさら考えません。
全部相手が悪いんだということになっています。
とにかく相手の煩悩、
嫌なところはよく見えるのです。
だから一休さんは、
「死んで骸骨になったら、
自分の煩悩もよく見えるよ、
あんただって憎らしい人と同じ煩悩があるじゃないか。
人のことって言える筋合いじゃないじゃないか。
だからお互いできるだけ相手の長所を見ていって、
仲良くやっていこうよ。
お互い死んでいく身なのだから」
と、
言われたんですね。

7月14日「人の悪(わ)ろき事はよくよく見ゆるなり。 我が身の悪(わ)ろき事は覚えざるなり 」 ~本願寺八世 蓮如~ (2009.07.14[Tue])

「人の悪ろき事はよくよく見ゆるなり。我が身の悪ろき事は覚えざるなり」
この言葉は浄土真宗の中興の祖として知られる本願寺八世、
蓮如上人の言葉です。
これは、
「他人の欠点はよく目につくものだが、自分の欠点にはなかなか気づかないものである」という意味です。
人間は常に自己中心的で、誰もが「自分はいつでも正しい」と思っています。
いつも自分の正しさを物差しにしているので、他人の行動や言動が自分の正しさと違うと口には出さなくても、心の中では相手を責めたり裁いたりしていきます。
自分の欠点に気づかずに、人を責める人は、必ず相手から責められるようになっていきます。
人間は相手に求めている以上、そこからは何も生まれていきます。
それよりも自分は「ありがとうと言われるように、言うように」はっきり決めて、
行動していくととても楽に生きていけます。
自分の至らなさに気づける人になれば、人間関係は自然と変わってきます。
これは親子、夫婦などの家庭はもちろん、
友人、上司や部下などの人間関係すべてに当てはまります。
世の中には加害者も被害者もいません。
自分が「加害者だ」「被害者だ」と思い込んでいる人が存在しているだけです。
すべては人ではなく、自分の至らなさに問題があることと捉えていくのが、
仏の教えです。
人の欠点を言ったり、批評批判しても、そこからは空しさは生まれてきても、
喜び楽しさのようなプラスの感覚は何も生まれません。
もし今の自分が批評批判好きで、何気なく人の欠点ばかりが目につく人であるならば、あなたの正しさの物差し、心の中の完璧主義の道徳説教師に気づきましょう。
そんな物差しで人を見ている限り、自分は「救われて(心が軽く自由)」いきません。
「あの人は・・」と人を批評批判したり、欠点がよく目につくときは、
「ありがとうと言われるように、言うように」
この言葉を思い出して下さい。
ほんの少しだけ相手の物差しで考えるだけで、人間関係がガラッと変わっていくことに気づきますから。

7月13日「組織とは人間性を磨き合い、高め合い、一人ひとりが成長する場」 
(2009.07.13[Mon])

組織とは、
仏さんの願いを常に問い聞き、
人間性を磨き合い、
高め合い、
一人ひとりが成長する場です。
自由が一番効率的ですし、
そのためには常識的ルールは必ず守る
人間は、
信頼されれば、
それに応えようとします。
凡夫同士だからこそ、
お互いを責めるのではなく、
お互いの長所を見つけていけば、
必ず人間は伸びていきます。
人間は、
叱って、短所を直そうとしても、
早々直るものではありません。
そういうマイナスの面にフォーカスすればするほど、
外発的になっていき、楽しくありません。
人は、
内発的になると、
自ら考え、
自主的に行動していけるようになっていきます。
叱られるから働く。
罰せられるから守る。
給与が下がらないように働く。
条件反射的行動をする人間は、
環境が変われば自ら働くことができないものです。
人間はどう生きるのか?
人生の目的とは何か?
トップは遠大な理想を語ることによって、
人間性の目覚めを促し、
一人ひとりの内発性を大切に育てていくことです。

7月11日「仏の教えとは、すべてを受け容れること」 (2009.07.11[Sat])

お釈迦様が説いた「人生は苦である」とは、
「自分の思いとおりにならないこと」という意味でした。
そこからお釈迦様は、
「受け容れることが楽になることであり、  
自分の思い通りにしようとするから、悩み苦しむのだ」
苦とは、
自分の物差しが強く、
自分の基準があり、
そうあるべきだという考え方があるから、
そこに「強い思い」が生じ、
論評・評価が生じ、
それが思いとおりにならないものを否定することになる、
ということを二千五百年前に見通したのです。
そして、
その「思い」に執着しなければ、
人間は悩み、苦しみを持つ必要がなくなると言われました。
思いに執着しないとは、受け容れることにほかなりません。
そしてお釈迦様は、思いに執着しているのなら、お念仏を称えなさいといわれました。
人生が楽になるためには、
過去のすべてを全肯定して必要・必然として受け容れること。
現在のすべてを全肯定して必要・必然として受け容れること。
未来のすべてを全肯定して必要・必然として受け容れること。
すべてを受け容れることができたら、
実は悩みや苦しみというものは存在しなくなります。
受け容れるイコール、自分の思い通りにしようとしないことなのです。

7月10日「自分の思い通りにしたいから、悩み、苦しみが起こる」 (2009.07.10[Fri])

お釈迦様は人生は「苦」であると言われました。
そして「苦」の本質は、
自分が思い通りにしたいのに、それが叶わないことだと。
だから悩む、苦しむ・・と。
悩み、苦しみが思い通りにならないことから生まれていることが分かったら、
思い通りにならないことをどのように扱うのか、ということになります。
西洋の価値観では、
思い通りにならないことがあれば、
人の五倍、十倍、二十倍、三十倍その思いを目標達成するまで努力し、
頑張って、そして自分の思いが実現するまで継続して頑張れと教え込みます。
現在の日本の教育は、ほとんどがそこに立脚してますので、
僕もそう思い込んでやってきました。
ただ、そのほとんどが人と比較したり、競い合っていく「外発的動機づけ」なので、
体を壊す人が多くなり、精神を病む人も多くなり、
自分の人生が何のために存在するのかが分からないという人も増えました。
そしてもう一つが東洋の仏教的価値観では、
思いとおりにならないことにがあれば、
「まっいいか」とそれに執着しないということです。
思いが強ければ強いほど、
その思いが叶わないというストレスが強くなっていきます。
その結果として、
思い通りにならないことが、
悩み、苦しみになっていきます。
その「思い」に執着しなければ、
思いとおりにならないという意味での悩み、苦しみは生まれません。
思いが強ければ強いほど、悩み、苦しみが強くなるのです。
子どもが不登校になれば、
不登校を受け容れて、
不登校である間、親がずっと「あなたの味方なのよ」ということを示し続けば、
子どもは本当に安心して信頼して、心を開いて元気になっていきます。
つまり大事なことは、
自分の思いとおりにしようと悩み、苦しむのではなくて、
受け容れてあげること、受け容れること、そのことに「まっいいか、そんなこともあるよ」
って、執着しないことなのです。

7月9日「自問自答するクセをつけよう」 (2009.07.09[Thu])

家庭も、
仕事も、
人間関係も、
人生も、
日々、
何かに「気づいて」
古い殻から脱皮して、
新しい「いのち」を生きていく。
それが人間が生きてる意義だと思います。
そのためには、
自問自答のクセをつけること。
仏様と共に生きている人は、自問の気持ちを持っています。
自問とは、物事に流されず常に自らに問いかけるということです。
これでよいのか?
もっと違う選択肢があるんじゃないか?
この、失敗はどうして起こったのか?
どんな出来事を前にしても、
自分を責めたり、
居直ったりする前に、
そのなかでの出来事の必然性を理解する。
仏様が自分に何を教え、導こうとされているのか?
念仏者のとても大切な要素です。
嫌な出来事や失敗からつい目をそらしてしまおうとしたり、
逃げようとしたりしまうのは人間が持つ本能的な性です。悪いクセです。
念仏者は仏様の智慧をいただいて、わが身を振り返ります。
しかし、問題をすりかえて人の責任に転換したり、居直ったり、逃げたりすると、
同じ失敗や嫌な出来事が、二度でも三度でも追いかけてきます。
それは仏様が意地悪でやっているのではありません。
「おまえの傲慢さに気づけよ、目覚め」と嫌なことを通して真実が至り届いてくるのです。
それは意地悪じゃなく、親の大きな愛なのです。
ですから、
その出来事から学び、深く自分のいたらなさに気づき、「私は」「私が」という強い
思い込みや、我執を心底認め、脱皮して勇気と決意で次に向かわない限り、
同じことは繰り返し繰り返し起こってきます。
気づきの積み重ね、それが仏様のお育てにあう人生なのです。
「気づけば、それでいい。ただ心に深く刻めばいい。
人間の成長はすべての原因が自分にある、そう気づくことから始まるのだよ」
仏様はいつもこうおっしゃているのでしょうね。
どんな過去であれ、
自らに何かを教え、気づかせるための過去です。
そして今があります。
その人の今このは瞬間は過去の教えと気づきの積み重ねで存在します。
だから過去はオール善です。どんな過去であれ、全力て肯定することです。
その上で、その過去からの教えに目を凝らすんです。
そうすると、
時間をもっと効率的に生きようとして、
いろんな工夫が生まれていきます。
つまり時間を味方にするということです。
時間を味方にすれば余裕も生まれて、人相もよくなっていきます。
時間を敵にまわしたり、時間を無駄に使えば人相も悪くなります。
過去から学ぶ、そして失敗から学ぶ、
常に自問自答のクセをつける。
仏様から大きな愛のメッセージが届いているということを、忘れずに。

7月8日「身の回りの出来事に偶然はない」 (2009.07.8[Wed])

日本人で初のノーベル賞とった京都大学名誉教授、
故湯川秀樹博士は、
「一つの出来事が偶然起こるなどというのは、人間の傲慢なのだ」
と語っています。
人間には役割があります。
人間に役割があるように、
時間には時間の、
場所には場所の、
出来事には出来事の役割があります。
だから、
どんな大変なことや嫌なことでも、
自分に何かの気づきを与えようとしてやってくると考えることです。
人間に成功する性格があるとすれば、
一つひとつの出来事や時間にその役割を尋ねることができるということです。
さまざまな指示やら約束を忘れてしまって、
怒られたり嫌われたり信頼を失った人がいるとしましょう。
「ああ、本当に駄目だ。あんなことをいつも忘れてしまう。  
それにしても、あんなことを頼むからだ。人は忘れることもあるんだから・・。」
と失敗に居直る人。こういう人は自分の姿がありのまま見えていません。
失敗は、常に自分の性格からもたらされます。
そして、その自分の性格が見えていないのです。
すぐにメモを取らない性格。
安請け合いをしても最後まで完結できない性格。
確認をしない性格。
これらは、決して能力の欠落ではありません。
自分の性格やクセをあきらかに見て素直に認めてないのです。
自分のいたらなさに気づけば、
その人は前向きにクセづけをしようと努力を始めます。
メモを取るクセづけ。安請け合いはしないクセづけ。
確認するクセづけ。毎朝、今日の約束を出かけに考えましょう。
これらもみんな、クセづけです。
一つの失敗は偶然ではなく、クセづけを意識しないために必然性があって連続するのです。
その失敗を通して仏様は何を一体何を教えようとしているのか、
その出来事に耳を済ませば、
その出来事を通して直感的にありのままを感じ取ればいいのです。
とにかく、目の前に起こることは、すべて必然です。
偶然なんて何一つありません。
それはすべて仏様からの、「わが身の姿、傲慢さに気づけよ、目覚めよ」というメッセージなのです。
僕も日々学んでます。
人は学んで学んで伸びていくわけです。
過去と脱皮していくわけです。
学ばないと、
捨てないと、
脱皮は起こりません。
学ぶとは、
すべての事象を必然と捉え、
仏様からのメッセージであると受け取ることから始まります。

7月7日「組織や自分の役割」 (2009.07.07[Tue])

あなたに、
「何のために働くの?」「何のために生きてるの?」
とズバッと聞いたら、どう答えるでしょうか?
「給料のためではないな・・。自分のためかな・・・。」
「ただ生きてるだけじゃあ動物だな・・。幸せになるためかな・・・。」
いろんな思いをめぐらせるかもしれませんね。
世の中の出来事に不必要なことは何一つもありません。
どんな出来事も、人間が何かを気づいたり、何かを学べるために起こってきます。
それを親鸞さんという方は、阿弥陀様の大きなはからいによると、受け止められています。
人間は、生まれたからには、誰しも必ずや役割を持って生まれてきます。
だから人間は、どんな存在であれ、不必要な人間など誰一人もいません。
人間にとっての一番の悲しみは、嫌われたり、憎まれたりすることではなく、
無視されることです。
人間はなぜ生まれ、死んでゆくのでしょうか?
人間は、
「大宇宙の大きな愛のいのち(仏)に生かされていることに気づき、
育まれていることに目覚め、本当の慶びを味合うため生まれてきました。
そのプロセスとして人間は自身の役割を全うし、自己成長を遂げていきます。」
人生のスタートは、
自分の生まれてきた目的、
そして働く目的を探求しようとしたときに始まります。
常々思って下さい。
家庭のなかでは家族や子供たちに、
そして職場では仲間や後輩たちに、
生まれてきた目的、
そして働く目的を語りかける自分でいたいと。
誰にも生まれてきた役割があります。
働く目的があります。
そして自分が果たすべき役割があります。
自らの役割を発見することはとても簡単です。
目の前のことに全力で取り組むこと、
どんなことでも言い訳したり弁解したり決して逃げずに、
全力で挑み続けること。
働くとは、
自分の役割を発見することです。
働く、
その自分に課せられた役割。
今どう動けば役立てるか?
やく立てるその対象は、世のため人のためにです。
それは、人は人から喜ばれたときに無上の喜びを感じるからです。
こういう「始点」をもっている人間は幸せです。
「始点」とは何かに迷ったとき、
立ち戻る原点のことです。
企業とか組織であれば、
「理念・方針」です。
一個の人間にとっても、
この「始点」はとても大切です。
「始点」がないと、人間はどこまでも怠惰になり、
自分の偏った思いの強さによって思わぬ迷い道に迷い込んでしまいます。
ナチュラルクリーンという会社にとって、
うちの保育園やお寺、
そして仏縁のある会社や商店にとって、
そして僕や念仏者にとっての「始点」「理念」「方針」は、
理屈ぬきに「浄土真宗の生活信条」に尽きます。

一、 み仏の誓いを信じ、尊いみ名(なんまんだぶ)をとなえつつ強く明るく生き抜きます。
一、 み仏の光を仰ぎ、常にわが身をかえりみて感謝のうちに励みます。
一、 み仏の教えにしたがい、正しい道を聞き分けてまことのみのりを広めます。
一、 み仏の恵みを喜び、互いにうやまい助け合い社会のために尽くします。

この「浄土真宗の生活信条」を自らが生き、目の前に与えられた仕事や職種を通して、
多くの人たちとの共感のネットワークをつくっていくことが各組織や僕たちの役割ですし、
もっと本質的に言うと、人間としての役割だと思います。
とかく人間は、「始点」「理念」「方針」は掲げても、
そこを真摯に生きよとする組織や人々は少ないのです。
つい「自分が、
私が何をしたいのか?」というエゴの声に負けてしまいますが、
常にわが身を振り返って、生活信条に沿って自らが謙虚に生きているかどうかを考える、
クセづけが実に大切なのです。
日々、「組織や自分に与えられた役割を全うすることが何よりも一番の本質的喜びであり、
仏さんの願いを生きる」ことですね。
役割を自覚し、役割にはまり、役割を生きる、
このことが自分にとって一番気持ちいいのです。

7月6日「 きれい好きになろう」 (2009.07.06[Mon])

毎朝、毎昼、毎夜、
仏様に向かってお勤めします。
お香をたいて、
お花を変えて、
灯明をともします。
その中心にいらっしゃる仏様はとても美しい。
そこには、
真善美の荘厳な世界が広がっています。
ということは、
仏様はきれいなことが大好きだということです。
一番目のきれいさは、
「見目形、姿形がきれいな人や場」。
そして二番目は、
「心の素直な人」
そして三番目は、
「身の回りを常に整理整頓してきれいにしている人」。
特に人が嫌がるような汚れ、
トイレ、 流し、 洗面所をいつもきれいにしている人、
「こういった人って気持ちよくていいよね」
って思われてるんじゃないでしょうか。

お仏壇には、
真・善・美の姿がすべて整っています。
そり姿から、
仏様の願いとは何かが、
見えてくるものなのです。
まずは身近なところからの整理整頓から、
ですね。

7月4日「追い求めない人生」 (2009.07.14[Sat])

今自分に何が足りないか、
何が欲しいかを言っているときは、
「ありがとう」が出てきません。
今、
自分がどれほど恵まれているかに、
気づくことが「幸せ」の本質です。

ただ自分が生かされていることに感謝し、
手を合わせて向こうに伝えることで、
人は幸せの人生を送れるようです。

執着しない、
頑なに自分の正しさを押し付けない、
必要以上のことを追い求めない人生になると、
物凄く楽に生きられるようになります。

とくに感じるのは、
人生の折り返し地点の四十歳ぐらいまでは、
努力して頑張ることが追い風になってくれますが、
折り返し地点を過ぎると、
努力して頑張って求めれば求めるほど、
同じ風が向かい風になります。
逆に、
捨てていくことが追い風になってくれます。
この捨てるというのは、
物ではなくて「心」の話です。
自我、
欲望、
要求、
執着、
我執、
そういうものを「もういいや」って、
捨てれば捨てるほど、
楽に生きられるようになります。
ですから、
二十代、
三十代は、
一生懸命目標設定して努力して頑張ってみましょう。
それが追い風になります。
ただし、
四十代以降の人は、
捨てる人生を歩んでいきましょう。
それが追い風になりますから。

7月3日「言葉は打出の小槌」 (2009.07.03[Fri])

言葉とは不思議な打出の小槌です。
不平不満、
愚痴、
泣き言、
悪口、
を無意識に言っている人を客観的に観察していくと、
マイナスの言葉の打出の小槌を振りまくっていることが、
よくよく分かります。
その人の体がおかしくなる。
目が充血してくる。
降ってわいたようにおかしなことが起こってくる。
人相がどんどん悪くなってくる。
人が寄り付かなくなり、
同じようなマイナスの人とグループができて、
さらに輪をかけておかしなトラブルに巻き込まれる。
言えばきりがありません。
でも、
その人はマイナスの言葉の打出の小槌を振ることをやめようとはしません。
絶対に、死んだら成仏できないでしょうに・・。

逆に、
お念仏を喜んで、
嬉しい、
楽しい、
優しい、
気づける、
希望のある言葉を、
無意識に使ってる人を客観的に見ていくと、
笑顔がたえない、
よく笑う、
楽しいことがやってくる、
人相がどんどんよくなる。
頼まれことが増え、
人から感謝される。
同じようなプラスの人とグループができて、
さらに輪をかけて楽しい出来事がどんどん起こってきてる。
言えばきりがありません。

言葉は打出の小槌であった、
そう思えます。

7月2日「結果にこだわらない」 (2009.07.02[Thu])

何かの目標に向かって努力することはいいことです。
汗を流すことも美徳です。
でも、決して結果に「こだわって」はいけない。
それは執着になって、
とても心を頑なにしたり、
重くしたりするからです。

努力はどんどんしましょう。
ただ、結果にこだわらない。
「自分でなければならない」
「自分が頑張らねばならない」
と決めないことです。
背負い込むな、
ということを言いたいのです。

自分は種まきの人だと思いましょうる
たた゛ひたすら気持ちよい種をまくことに専念しましょう。
花開くのを見るのも、
実を得るのも、
自分で確認しなくていいる 次の人に委ねよう、
それぐらいの気持ちで何事も取り組んだほうがいい。
そう考えておけば、
目の前で結果がすぐに出てこなくてもいい、
そういった心軽やかな気持ちで物事に取り組めます。
結果を期待しない。
結果に執着しない。
種をまいておけば、
時と場所に応じてなるようになっていくのですから。

7月1日「お金に嫌われる使い方」 (2009.06.15[Mon])

お金自身が一番嫌がる使い方は、
ギャンブルだと思います。
気晴らしに楽しむというのはまだしも、
一攫千金を狙っている人は物凄くお金に対する執着が強い。
お金に対してそうした意識が強いと、
お金は逆に離れていくでしょうね。

それと、
お金が入ってきたときに生活が変わること。
贅沢華美ということを、
お金は嫌がるんじゃないでしょうか。

次は、
貯めこまれること。
「水とお金は、
流さないと腐る」と昔から言われています。
だから、
お金は貯めこんではいけません。
貯めこんでいると腐ります。
こんなことを言ってると、
「私には、腐るほど貯めているお金なんてない。  
貯まったら使います」と言う人がいますが、
これは逆です。
先にお金を出して人に喜ばれるように使うと、
自然とお金は入ってきます。

お金は血液とまさに同じです。
常に流し続けること、
常に自他共に喜べることに使うことによって、
必ず必要な額が必要なときに入ってくるようになっています。
またお金で返ってこなくても、
必要なときに必要なことを人から与えられるようになっていきます。

こういったことを何度も何度も体験させてもらいながら、
お金は一円の小銭も大切にすること。
またお札は同じ方向を向けてきちんと整えておきます。
決してクシャクシャにしないように。
それがお金に対する礼儀ですし、
思いやりです。
とにかくお金を大切に扱っていると、
「お金にもいのちがあるな、
人間となんらかわらないなあ」と、
思えるようになってきますよ。


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