心のパンドラの箱を開けて仏様にすべてを任せよう (2007.9.29[Sat]) |
昨日は、私の祖母(ごうじょっぱり)が、怒り、腹立ちを起こす度に念仏を称え、次第に仏さんのような人になっていった事実をお話しました。またそれは、不幸や悲しみや苦しみと解釈されるあらゆる現象も、もっと深い自分の心が実現したものであり、その現象が表に出ることによって、気づくべき何かが生まれ、その気づきと感謝によって、前世からの宿業のネガティブな輪が断ち切られていき、それとは違ったまったくポジティブな現実が目の前に引き寄せられてくるとも。 ギリシャ神話にある「パンドラの箱」の物語りって知ってますか?パンドラは、ギリシャ神話の最高神ゼウスによって地上に送られた最初の女性ですが、ゼウスはパンドラを人間界にもたらす際に、「決して開けてはならない」といって、あらゆる災いを封じ込めた箱を持たせました。ただ、開けちゃあいけないと言われれば開けたくなるのが人情というものです。パンドラもやはり箱を開けてしまった。そのために、病気、飢え、貧欲、増悪、猜疑、嫉妬、怒り、悲しみなど、あらゆる不幸の種が箱から飛び出してしまいました。パンドラはあわててフタを閉めましたが、もう間に合いません。それ以来、人間界には不幸が絶えなくなってしまったというわけです。 「しかし」とこの神話は、締めくくられています。「急いでフタを閉めたお陰で箱の片隅に小さな光る石が一つ残りました。その石にはかすかに“希望”という文字が書かれていました」と。 実は、よくよく考えてみれば私たちの心の奥底には誰もが「パンドラの箱」を持っているのです。それが前世からの宿業なのですが、その宿業のフタを開けては心の邪気を外に出している。 私たちは、怒りの感情が込み上げてくると、「あいつがこんなことを言うから腹が立つんだ」とか「こんな目にあったからこうなったんだ」と思います。あるいは悲しくなると、「あんなことがあるから悲しくなるんだ」と嘆くわけですが、どうも「因果応報のネットワーク」を知れば知るほどそうではないことに気づいてきます。自分の外側に起きた事象によってネガティブな感情が生まれるのではなく、私たちの心の奥底にネガティブな感情があるからこそ、その感情に応じた現実が外側に起きているわけです。 例えば、私たちの心の奥底に怒りの感情があると、その怒りが出てくるような現象が外側に実現する。心の奥底に悲しみがあると、その悲しみが実現するような出来事が外に起こる。つまり、そういう現象は、ほかでもない自分自身がつくっているわけです。あいつがこんなことを言ったから腹が立つのではなく、自分の怒りが内側にあって、それがちょうど映写機でスクリーンに映像を映すように、自分の心の内側で起きてることがすべて外側に映し出されるわけです。そしてそれがまさしくその人の人生ということになるわけです。 つまり心の奥底にもっているネガティブな感情が実現して、いろんな現象が起きるのだとすれば、逆に今度は、心の奥底に蓄積されている邪気がなくなっていったらどうなるのでしょうか。強い怒りの感情がなくなっていけば、宿業もなくなるし、自分にとってネガティブなことも起きなくなるはずです。強い不安や怒りの感情がなくなればなくなるほど、不安や怒りが込み上げてくるような現象が自分の外側には起きなくなる。悲しみや嫉妬の感情がなくなっていけば、悲しみや嫉妬にうち沈むような現象も外側に起きなくなる。当然「因果応報のネットワーク」ではそうなるのです。そのとき、はじめて「希望」という文字が書かれた小石が私たちの心の中で輝いて見えてくるのではないでしょうか。じゃあ本当に心の邪気をなくすことができるのでしょうか? ここで私の祖母にもう一度登場してもらいます。祖母は仏法を死ぬまで聞き続けた人でした。祖母は人一倍ごうじよっぱりで短気でした。祖母は短気(宿業)が起きる度に念仏しました。祖母は念仏して仏様に守られていることを味わう度に心穏やかになっていきました。祖母は72歳で心臓にペースメーカーを埋め込まなければ死ぬと言われてましたが、「仏様にお任せする」と決め、92歳まで仏様に任せて元気に一生を終えました。晩年の祖母は「この世は浄土だ」と仏様と共に生かされ生きる人生を心から喜んでいました。祖母の人生を返り見る時、宿業からの解放の大きなヒントがあるのです。 |
因果の法則 (2007.9.28[Fri]) |
昨日は、この宇宙は自分が気づく気づかないにかかわらず、「因果応報のネットワーク構造」で成り立っていると、お話ししました。また、ネガティブな事象が目の前に現れてくるということは、心の奥底に宿業(前世からのネガティブな感情や心の癖)があるからだ、とも。 それを私たちの表面の心が確認し、「嫌だ」「悲しい」「辛い」「なんで自分だけがこんな目に・・」という心のレッテルを張って、泣いたり、怒ったり、嫉妬したり、不安になったりするわけです。つまり、心の深いところから出てきた否定的な感情を表面の心が確認し、それを「くそっ」と心に収めてしまうことで一つの輪ができてしまうのです。私たちは、そういうネガティブな輪を常に心につくり、「心の奥底の宿業からネガティブな感情や心の癖を宇宙に発振」→「因果応報のネットワーク構造によってネガティブな事象を自己実現」→「表面の心がそれを確認して“嫌だ”“悲しい”“辛い”“なんで自分だけがこんな目に・・”という心のレッテルを張って、泣いたり、怒ったり、嫉妬したり、不安になる」→「“くそっ”とそれらのネガティブな感情をまた心の中に収めてネガティブな宿業を増やしてゆく」、つまりこういうネガティブな輪を常に心につくり、繰り返し繰り返し人生をまわしているのです。 ただ、この宇宙の現象には本来ポジティブな意味もネガティブな意味もありません。すべてはありのままの事実しか起こらない中立ですから、表面の心で「嫌だ」と確認することで一つのネガティブの輪が形成され、「因果応報のネットワーク」に組み込まれて際限なくネガティブな宿業の自己実現が成されていくわけです。 人が幸せを求める限り、そういったシステムが現実化されていくわけですから、自身のネガティブな輪を断ち切ることがどうしても必要になってくるわけです。その一つに「気づき」があります。たとえば、病気になったときに、「病気になったおかげでこういうことに気づくことができました」と、病気になったことを嘆くどころか、むしろ「病気」になったことによる「気づき」に感謝することによって、前世からの宿業から解放されるということが起こってくるわけです。 山田会長なんかもそうですね。脳梗塞で倒れて障害を持った事で、あらためて「生かされていること」「人様の役に立つこと」「仏様に護られ救われているということ」にはっきりと目が見開かれ、日々感謝と報恩の生活が営まれるようになったと言います。そして現在彼の言葉から「まったくネガティブな事象が目の前に起こらなくなった」と聞きます。もちろん彼の心が仏様の慈悲で満たされていることもありますが、実際にそうなのです。彼の身近にいて、つくづくそう実感しています。 また、私の祖母にしてもそうです。お寺で凄く苦労された方なのですが、昔は物凄く潔癖症で正義感が強く、まあ、ごうじょっぱりのところがあった人です。ですから、何かあるとすぐカッときて、ヒステリックになった凄い姿を今でも思い出すことがあります。その祖母が亡くなる前は、本当に仏様のように穏やかな人に転じられていました。祖母は腹が立つことがあると必ず本堂に行っては、「ナンマンダブツ」「ナンマンダブツ」と怒りを押さえる事なく念仏しながら仏様に自分の心の内をぶちまけていました。と同時に仏様に救われている喜びも噛み締めていました。ですから初めは激しい念仏であっても、次第に最後には本当に心からの感謝の念仏がいつも僕の耳には聞こえてきたものです。そして祖母が怒り苦しみを持つ度に、そしてその都度念仏する度に、実に穏やかな祖母になってゆく。そして祖母は亡くなるまで「この世は浄土だ」と報恩感謝の心で生かされて生きました。ごうじょうであった祖母が、仏様に育まれ穏やかに転じられていく姿を客観的に見ながら、「仏様の力とはなんと凄いものだ」と、ただただ驚くばかりだったのです。 結局、不幸や悲しみや苦しみと解釈されるあらゆる現象も、もっと深い自分の心が実現したものであり、その現象が表に出ることによって、気づくべき何かが生まれ、その気づきと感謝によって、前世からの宿業のネガティブな輪が断ち切られていき、それとすは違ったまったくポジティブな現実が目の前に引き寄せられてくるわけです。「宿業の浄化」とは、こういうことなのではないかと思えます。 |
病気も事故も否定的な感情(宿業)が引き寄せている (2007.9.27[Thu]) |
太田さんの変化表に「最近の話は長くて難しい・・」と書かれていましたが、そうですね。僕が逆の立場だったらそう思ってるでしょうね。ですから、できるだけ今日から分かりやすく仏法を書きますから、飽きずに読んでやって下さい。お願いしますね。 さて、今日のお話しは「病気も事故も否定的な感情(宿業)が引き寄せている」です。もっと詳しく言えば、「私の人生は自分の思いが実現することによって成り立っている」、ということです。 こう言うと、「なんのこっちゃ。思いどおりの人生?とんでもない。好きこのんで自分の病気や不幸を願うばかがどこにいる!」とほとんどの人が思うはずです。僕も仏教を学ぶまではそう思ってましたから、無理はありませんし、自分の不幸を願う人は、もちろん誰もいるわけがありません。幸福で豊かな、ゆとりのある人生を誰もが願ってます。でもね、それは表面の心のレベルでのことなんです。 ただ、自分の心のより深い心のことは、私たちには分かりません。表面の心は、病気や事故になってしまったりして、私はなんて不幸なんだろう、と思ってます。でも、深い心では、何かの目的で病気になったり、事故に遇ったりすることを望んでいて、その思いどおりのことをどんどん実現しているって金剛経というお経の中には書かれてるんです。これには意味があります。表面の心では望んでいないことでも、深い心では自分の身の上に病気や事故を起こすことによって、自分に何かを気づかそうとしているわけです。これが実は私たちの人生なんです。で、こういったネガティブな気づきのメッセージとは仏さんからの「感謝・謙虚さ・素直さに目覚めよ」だと思います。こういった大きな心に目覚めるために、深い心から現象を通して何度も何度も「感謝・謙虚さ・素直さに目覚めよ」という一見マイナスに見える現実が引き起こされてくるのですが、これは自分の深い心の自己実現と言ってもいいですね。 復習ですが、人は何故生まれてくるのかというと、「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天上」という迷いの六道の世界から解放されて仏(無煩悩)の世界に生まれていくためだと皆さんには何度もお伝えしてますよね。 この世に私という存在が生まれたということは、前の世も、その前も、その前も、その前も、気の遠〜くなるようなその前の世もあったということです。気の遠くなるような生死流転を繰り返しながら、自分たちは心の中につくってきたものがあります。それが宿業(感情や心の癖)です。その宿業(感情や心の癖)は善いも、悪いもあるのですが、この宇宙には、この心の中にある宿業(感情や心の癖)は必ず無意識に宇宙に放射され、自分自身にブーメランのごとく戻ってくるという法則があります。これは因果応報の法則の考え方です。 この因果応報の法則が正しいとすれば、私たちが他人から受ける行為や病気や事故も偶然ではなく、過去の自分の行いや想念が跳ね返ってきたものだ、ということになります。例えば、電車の中でたまたま誰かに足を踏まれたら、それは偶然でなく、自分の過去の行為や感情で生んだ必然の結果だということになります。しかも、自分が足を踏まれるように何かが戻ってくるときは、直接あなたが関わった誰かではなく、まったく別の人から戻ってくるわけです。このように世の中は、表面的な認識力ではサッパリ分からない複雑な「因果応報のネットワーク構造」になってるわけです。 ですから、その宿業(感情や心の癖)を解消するために、昔の人は「陰徳を積みなさい」と言ってきました。陰徳を積むというのは、人に知られないように徳を積むということで、かりに徳を積んでも、それをしゃべってしまったら、徳が逃げてしまう。だから、誰にも知られないように徳を積むと、それがめぐりめぐって自分に戻ってくると伝えられてきました。これは「因果応報のネットワーク構造」をより善く改善するためであったわけです。ですから、「陰徳を積む」という背後には因果応報の法則の考え方があるわけです。 つまり、「自分は不幸だ」という表面の心での嘆きは、前の世やこの世でつくってきた宿業(感情や心の癖)を解消するために病気になる事を望んでいる深い心との葛藤から生まれてくるわけです。要するに、否定的な宿業(感情や心の癖)が自身の心の中の奥底にある限り、私たちは無意識に否定的な現実を目の前に事象として実現し続けているのです。その宿業(感情や心の癖)が「嬉しい」「楽しい」「幸せ」、つまり「感謝・謙虚さ・素直さ」にクルッと引っ繰り返って転換されていくまで、その人の一見不幸と見える現実は繰り返し引き起こされてくるということなんです。宇宙は自分が気づく気づかないにかかわらず、「因果応報のネットワーク構造」で成り立っているわけですから・・・。 |
仏の教えに出会うために人間として生まれて来た (2007.9.26[Wed]) |
三十代の時、ネパールやインドへ一ヶ月間いってたことがありますが、その一ヶ月間でいろんな価値観の転換が起こったことを、こうやって仏法を書きながら思い出すのです。 インドやネパールはそんなに豊かな国ではありませんでした。これは日本と比べたらですよ。ただ彼らは骨の髄まで転生輪廻を信じているので、貧しくとも犯罪が極めて少ないのです。転生輪廻とは、この人生が終われば、次の人生があり、そのあとまた次の人生がある。だから一度きりの人生なんて在り得ないわけですから、今世、自分がホームレスであっても、善を心がけて次の人生を期待するのです。だから、彼らは犯罪をしない。 失う物が何もないホームレスであれば、無銭飲食でもやって刑務所に入って、三度の飯に有り付こうとする。日本人ならそう考えると思いますが、彼らにしてみればそんな考えなんて「とんでもない」ことなんです。原因が結果を生み出す因果の道理は法則ですから、この世で罪を犯すと、来世は地獄で苦しむことになる。何万年も地獄で苦しむよりは、この世の五十年、六十年をホームレスで暮らした方がいい。彼らは本気でそう考えています。それゆえに、ネパールもインドも犯罪率の非常に低い国なんです。 でも日本人は転生輪廻を信じる人は少ないですから、まあ、国会にしても、会社も、教育も、社会にしても、どうしても一度きりの人生は「おいしく生きたい」と思って、いろんな利害損得の駆け引きをしては生きていくんでしょうね。 道元禅師(どうげんぜんじ)という方が正法眼蔵(しょうほうげんぞう)の生死(しょうじ)の巻で次のように言っておられます。 「この生死はすなわち仏の御いのちなり。これをいといすてんとすれば、すなわち仏の御いのちをうしなわんとするなり。これにとどまりて生死に著(じゃく)すれば、これも仏の御いのちをうしなうなり、仏のありさまをとどむるなり。厭う事なく、したうことなき、このときはじめて仏のこころにいる。」 つまり、 「私たちの人生は、仏のいのちを生きているのである。この人生を逃避すれば、仏のいのちを失ってしまう。しかし、この人生に執着すれば、それも仏のいのちを失って、私たちが本来的に持っている仏らしいあり方を殺してしまうことになる。それゆえに、われわれはこの人生を逃避することも卑下することもなく、執着したり傲慢になったりすることもないようにすべきだ。そうしたときに、われわれに仏の心が分かってくる。」 と、仏のいのちを生きているんだと道元さんは言っているのです。この人生に執着せず、しかも大事に生きる生き方は、今の自分をしっかりと肯定して生きなさいということです。あなたが今現在ある在り方が、仏のいのちのあり方だからです。あなたが平凡な人生を送っていると思えば、平凡な人生こそが仏のいのちです。波瀾万丈を望んではいけません。あなたが波瀾万丈のいのちを生きていれば、それがあなたの仏のいのちです。もっと落ち着いた、静かで平凡な人生を送りたいものだと考えてはいけません。そう考えることは、仏のいのちを粗末にしているからです。 あなたが病気になれば、仏のいのちが病気になったのです。老人になれば、仏のいのちが年老いたのです。すなわち、病気が仏であり、老いが仏です。その病気や、老いを仏として拝みながら生きていくということが、仏のいのちを大事にすることだと道元さんははっきり言い切ってます。だから引きこもりやニートは、しっかり引きこもりやニートを楽しめばいいのです。そのことを周りがなんだかんだと言うより、それが可能で許される社会だからこそ、そういうことができるのですから、「なんとかしろ」と檄をとばすより、せっかく引きこもりやニートになったんだから、「もう少しそれを楽しんだら」の方が道元さんの仏のいのちを生きるということなんです。仏教を道徳や常識的な倫理と同じにしていくことではありません。そんなものはすべて人間の物差しだからです。仏教とは仏の物差しに従うということです。それはまさしく、自身のいのちが仏の心に蘇り、さらによりよく無理せずに生きていけるかってことの教えなんですから。 |
いのちは誰のもの (2007.9.25[Tue]) |
ある仏教日曜学校の大会で、私は集まった100人余りの子供たちにこう質問しました。 「みんなのいのちは、誰のものだと思う?」 子供たちは予想通り、「僕のもの〜」「私のもの〜」と、異句同音答えます。 「じゃあ、魚のいのちは誰のもの」「さかなのもの〜」「じゃあ、どうしてあんたは魚を食べれるの?」そう言われて、子供たちは詰まりました。答えられません。なかに一人、女の子が言いました。「あのう、お金を払ってるからたべていいのお〜」「あっそう。でもね、お魚屋さんにお金を払うわけで、魚にはお金払ってないよね。おかしいと思わん?」 「・・・」 「あのねえ、あんたたちのいのちはあんたたちのもんじゃないんだよ」「じゃあ、誰のものなん・・」「それは仏様のものなんよ。あんたたちは、仏様のいのちをお預かりしとるんよ。同様に、魚のいのちも魚のもんじゃない。魚のいのちも仏様のもので、それを魚がお預かりしとるんよ。だから、魚は、仏様から預かっているそのいのちを、僕たち人間にプレゼントしてくれるんよ。それを仏教では布施という。魚は仏様に頼まれて、そのいのちを人間に布施してくれとるんよ。牛にしても、豚にしても、あるいは鶏にしても、みんなそのいのちは仏様のもので、仏様に頼まれて人間にプレゼントしてくれとるんよ。野菜にしてもお米にしてもそう。みんな仏様からいのちを預かっとるんよ。だからね、食事のときは、いのちに感謝して、“ありがとう”と手を合わせて食べるんよ。いい、わかった〜」 「はあ〜い」とみんな納得してくれました。 これがいのちに対する仏教の基本的な考え方です。ここのところを、「法華経」では次のように述べています。 「今、この三界(さんがい)は、皆、これ、わが有なり。 その中の衆生(しゅじょう)は、悉(ことごと)くこれ吾が子なり」 これを分かりやすく言えば、 「この宇宙は、私の世界なんだよ。 そこに生きる者は、みんな私のこどもなんだよ」 ということなのです。 だから「法華経」は、すべての衆生が、「仏子(ぷっし)」であると述べてるんです。我々はみんな仏の子なんだよ、ということです。だから所有権は私にはないんです。所有権はすべて仏様にあるわけです。親から見たら子どもは自分の所有物だと勘違いしてますが、そうじゃない。仏様からの預かり物。だってこの肉体も仏様の借り物。仕事だって仏様から与えられたもの。 つまりこの「私自身」と思ってる心も体も、全部仏様からお預かりしているもので、私の肉体でも心でもない。これが仏教の考え方です。私たちの身体は、肉体は、自分のもののようであって自分のものではないんです。勿論、私が所有していると思い込んでるものすべて、仏様からの預かり物であるわけなんです。このことをハッキリしておかなければ、仏教というものがさっぱり分からなくなります。 一休禅師は、 「借用申す昨月昨日、返却申す今月今日、借り置きし五つのもの四つかえし(地・水・火・風)、本来空(浄土)にいまぞもとづく」と言われます。この内容を分かりやすく言えば、私たちのこの身体は仏様から借りているのです。そのお借りしている身体を仏様にお返しして、本来空(浄土)に戻ります。それが死です。一休禅師はそう言ってるのです。 私たちは、仏様からお預かりしているいのちをこの世で生きてるわけです。そして、其のあとのいのちを仏様にお返しして空(浄土)に戻ります。だから何も心配することはない。そう考えるのが仏教です。だから何があっても安心して生き、安心して死んでいける。それは単なる癒しではありません。癒しは一時的なもんですが、仏教が与えてくれるのは、真実の安心です。本当の安心があればこそ、この世を精一杯生きることができるんです。 |
なんにも悪いことなんかしてないのに・・ (2007.9.24[Mon]) |
ちょっと前のことですが、植物人間になったご主人のことを思えば思うほど、「ご院家(ごいんげ)さん。うちの主人はなんの悪いこともしとらんのに、こんなむごいことになってしもうた。なんで年をとってから、こんな苦を背負わんといけんのじゃろうかと思うと、切なくて、切なくて、・・・」とポロポロ涙を流されたご婦人がいらっしゃいました。 私はここではっきり言いました。 「善いことをしたのにとか、あんな悪いことをしているのにとか言うことは、一切病とは関係ないことですよ」 私たちはすぐに、そこへ発想がいくんです。世間を見ていると、善いことをしているのに悪い結果になっている人もあるし、悪の限りを尽くしているのに、うまいことやってるひともいる。今の今まで世間様にそう迷惑をかけないで、することはちゃんとして、神さんも仏さんも敬ってきたのに、こんなむごい結果になるとは、と受け取ってしまう。こう思ってしまうのは、ほんとうに人間の宿業(しゅくごう)から起こってくるのでしょう。 観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)というお経の中に、イダイケという王妃が出て来ます。この王妃は自分の息子であるアジャセに殺されそうになるのですが(それには訳がある)、そこからイダイケの愚痴が始まるんです。愚痴は心の暗さ、無明(むみょう)、ありのままの姿や物事の本質が全く見えない状態から出てきます。 この愚痴というものは、言ったってどうにもならないことだけど、言わずにおれないんです。お釈迦様は人の愚痴には一切お答えになっておられません。愚痴に答えると、また新たな愚痴を生み出していくからです。ですからあなたも、人の愚痴には相槌を打つとか、アドバイスするとか、そういう事はしない方がいい。すればするほど「でもね」「だけどね」「しかしね」と、新たな愚痴を生み出してしまうからです。聞いても「今あんたはそういう気持ちなんだね」と頷くだけでいい。だから、お釈迦様は何時間も、悲しみの表情でイダイケの愚痴を黙ってお聞きになったわけです。 で、お釈迦様だったらその愚痴に対して堂いわれるか?多分、「それはねえ、前世からの因縁というしかないね」でしょうね。目の前に現れる事象の根は深く遠いんです。それが何かの縁を引き金として、現れてくるのが、因縁です。 では、それは運命か。違います。運命といったら私以外に私を操るものがあって、私をそのようにさせていく、そのことに私は無抵抗であるのですが、因縁は「そのよるところ」ですから、もとはみんな私にあるんです。自分でそのことが全く分からない。だからどこにももっていきようがない、自分で引き受けるしかないんです。 受けねばならないことは、どうしても引き受けなければならないんです。善いことをしても、悪いことをしても、そんなことは関係なしに、引き受けていかなければならない。それが因縁より生まれてくる、この世での約束事なんです。 今起こっていることの「よるところ」にはいろんな原因があるのでしょう。これは人間の浅知恵ではさっぱり分かりません。仏さんしか分かりません。ただはっきり言えるのは、「よるところ」の根本原因は「人間としてこの世に生まれたからである」ということなのです。生まれたという因(いん)があったから、何らかの縁によって、死という結果を迎えなければならないんです。 人はどのような運命を辿ろうとも、この「死ぬ」ということは誰一人免れることはできません。ただ仏さんは「今あなたの目の前に起こることを私と共に引き受けて生きよ。」とおっしゃるのです。決して一人で引き受けよとはおっしゃらない。私と共にとおっしゃる。おまえの気持はよくよく分かっておる。そのおまえを決して捨てないのが私なんだよ、その私を当てたよりにして生きていきなさいとおっしゃるのです。 機会ある度に仏法を聞かれていった奥さん(植物人間になったご主人を持った)は、「これも業縁(ごうえん)、ナンマンダブツ」と引き受け、最後の最後まで実に献身的にご主人を見守っていかれました。それから1年後、ご主人は静かにお浄土に還っていかれたのです。 |
覚悟はよいか (2007.9.22[Sat]) |
お釈迦様はこうおっしゃいます。 「この世において、どんな人にも成し遂げられないことが五つある。一つには、老いてゆく身でありながら、老いないということ。二つには、病む身でありながら、病まないということ。三つには、死ぬべき身でありながら、死なないということ。四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということ。世の人々は、この避け難いことにつき当たり、いたずらに苦しむが、仏の教えを受けた人は、避け難いことは避け難いと知るから、このような愚かな悩みを抱くことはないのだ」と。 お寺の門徒総代さんの一人にOさんと言う人がいます。 最近、脳の血管が詰まって入院されました。気にはなっておったのですが、この度病院から退院したということで、自宅の方へお見舞いに行って参りました。 Oさんにお会いした時の彼の第一声は、 「ご院家(いんげ)さん、わしゃあ、病気も頭の血管が切れることも、ぜんぶ人事じゃった。わしだけはそんなことには絶対にならんと思うとった。それがこの有り様じゃ。わしはいかに自分自身の心も体も省みることがなかったのか、つくづく今回ばっかりは思い知らされた。そのことに仏さんが気づけ、目覚めとおっしゃっとるというのがほんまによ〜わかったよ・・・」と言うなり、号泣された後、「ほんまに仏法を聴聞(ちょうもん)するということの有り難さが今更ながらよ〜わかったよ・・。仏さんから一度助けられたこの“いのち”を精一杯生きていかんとの・・」としみじみおっしゃっていました。 僕はOさんに、「今のあんたはいろんな事を考えずに、精一杯療養しながら仏法を聞いて、できる好きなことをボチボチやっていきんさい。焦ることはなんもないけんな。仏さんが、この機会に仏の心に遇て、あんたの後生(ごしょう)をハッキリさせよって、おっしゃっとるんじゃけえ」と伝えました。 奥さんが家庭にあって炊事洗濯するのも仏さんから任された立派なお仕事です。子供は遊ぶのがお仕事です。病人は、精一杯療養するのが仏さんから任されたお仕事なんです。 私たちはすべてアミダの世界から生まれてきて、阿弥陀の大きなはたらきの中で、一生を送っていく、つまり仏さんからお仕事を与えられて一生を終わっていくんです。 アミダさんの大きなはたらきの中で誰もが生かされて生きているのですから、おかげさましかないですね。人生はおかげさまで仏さんのお仕事をさせてもらってる。それに心から気づけるか、気づけずに自分一人で生きてると思い込んでるのか。仏法を聞くと言うことはそういうことだと思います。 ある方がこういう詩を綴っておられました。「病気もおかげさま。死んでいくのもおかげさま。おかげさま。おかげさま。」この方は仏さんと共に生きられた方です。だから、病気になったおかげで、健康な人には感じることのできない心境を開かせてもらったと喜んでおられます。健康な人には見ることの出来なかった世界が見えてきた、健康な人には到底感じられない人生を感じられるようになった、病気のおかげさまであった、病気によってまた一つ、人間を深められることができた、病気を味わっていこう、となれば病気もおかげさまであり、仏さんのお仕事なんです。 死ぬことのできるのもおかげさま。いつまで経っても死ねなかったら、これまた、大変ですよね。おかげさまのはたらきで、仏さんの大きなお慈悲のはたらきによって死んでいけるんです。死ぬのも仏さんのお仕事なんです。そして安心して仏の世界に帰っていくんです。祖父がよく言ってました。 「人の人生と言うものは、長いように思うが、反面、あっという間にすぎていくもんじゃ。その人生においてしてきたことは、すべて仏さんから与えられた仕事なのよ。人それぞれのいろんなことが人生では待ち受けておるが、そのいろんなことを縁として、人間に生まれてきたのは仏になるためであったと言う、この一点に気づけるということが素晴らしい。このことがハッキリ受け取れたら、その人の人生は成功じゃったんじゃ」と。 奥さんや本人ともいろんなお話をさせてもらいましたが、最後にOさんにこう伝えてわかれました。 「今まではあんたの願いを仏さんに聞いてもらおうとしよったが、これからは仏さんの願いをあんたがしっかり聞いてく番じゃ。そうすりゃありがとうございます。もう何も思い残すことなくお浄土へ還るまでの人生を生かしてもらえる。そう思わんか?」「まっこと、その通りじゃのお〜。またお寺へ行くけえ、仏法を聞かせてくれや」「ああ、死ぬまでわしらは聴聞しかないけえのう」「おお、わかっとる」「じゃあの」。 とても清々しい気持Oさん宅を後にできたというのはいうまでもありません。 |
身・口・意の三業 (2007.9.21[Fri]) |
仏教では身(しん)・口(く)・意(い」の三業(さんごう)と言って、この三つによって善いも悪いもその人の宿業(しゅくごう)というものが生まれてくると言ってます。 まず「身」とは、身体のことです。その人が不規則な生活をしていないか。やはり食事もバランスよく取り、睡眠をしっかり取って健全な肉体生活を送っているかどうかということです。仏教を学ぶということは、やはり、健全、健康で、精神的にも中道(ちゅうどう)というバランス感覚が取れていくということですから、まず精神や知力の前に、健康生活を大切にしていくことをお釈迦さんはすすめてくれています。 次に「口」です。感情的や衝動的な言葉を出すのではなく、その言葉の効果、それを相手が受けたときにどういうふうになるのか、こういうことをよくよく考えた上で、言葉を選んで生活する。これが大切だとお釈迦さんは言われています。 通常の生活の中においては、他の人々をむやみに批判したり、あるいは悪い言葉を吐くということはもちろんいけないことなんですが、仏さんと共に生きる人は、言葉を常に整えることが必要だと思いますね。 最後に「意」です。これは「心」と言ってもいいのですが、やはり自分の我の心じゃなく、仏さんの大きな慈悲の心、和顔愛語(わげんあいご)から生まれくる心が大切だと言われています。 とにかく、何年、何十年経ったら、みんな必ずこの地上を去っていくわけです。そのときには、背広もネクタイも何も持って還れません。自分の学歴も、お金も、貯金通帳も、何も持って還ることはできません。持って還るものは、心だけなんです。 では、心とは何でしょうか。心とは、「あなたが折々に考えてきたこと」です。それは、さまざまなことでしょう。波のように上がったり下がったりして、ブレてるでしょう。善いこともあれば悪いこともあるでしょう。何と言いますか、日々の心の平均波長というか、この波長が、自分の我で生きてる人と、仏さんと共に生きてる人ではまったく違うのです。この心の波長につながってる世界が浄土なのか、地獄なのか、本当にそういうことなんです。 そこで大切なのが、仏法を聞いて、わが姿に気づくということなんです。分かりやすく言えば、反省と言ってもいい。人間というものは、心の中に間違った思いをつくるわけです。どうしても我が中心で生きてしまいますからね。その我に気づくこと、その我につかまっている自分に気づくことって凄く大切です。常に自分より相手の立場を考えたりすることによって。すると我の心から、仏の心にクルッと転換できるんです。頑張るとは、我を張る何度も言いましたよね。自分の我を立てて頑張ってるときは、顔付きも変わってますし、自己主張ばかりして相手の心を感じていこうとはしてません。そうじゃなくて、「まっいいか、そういうこともあるよな」と我をクルッと仏の心に転じていくと、もっと大らかに正しく相手が見れるものなんです。この心が転じられていくと、口から出る言葉も変わりますし、心こそが肉体の主人ですから、心あればこそ、肉体の健全、不健全もなくなっていきます。心というものは、船の船頭さんみたいなもんですから、やはり心が一番大切なんです。 |
今日、自分が死ぬとしたら心に引っ掛かってるものは何か? (2007.9.20[Thu]) |
今日朝、妻から電話があって、私の知ってる方のご主人が脳梗塞になったという話を聞きました。「脳梗塞はタバコを吸う人に多いので、お父さんももう少し自重せんといけんよ・・」という心配の電話でもありました。わかっちゃいるんですけどねえ〜、なかなか・・・。それにしても、ご近所で四十歳以上の人で、あまりにも急な病気になる場合には脳梗塞で入院する話をよく聞きます。 私も五十歳になって、老壮年期に入ったわけで、大病や死という問題は決して人事ではありません。また日々確実に死に向かって歩いているわけで、今後の人生の何十年という時間は、本当に大きな意味を占めていると感じてます。つまり来世、後生(ごしょう)の入学試験の前の期間というか、ここをどのような精神状態で過ごすか、仏さんと一緒に生かされるのか、それとも私の我で生きていくのか、来世に生まれていく世界に非常に関係があります。 仏法は学仏大悲心です。仏の大きな慈悲の心を学ぶ教えです。無量寿経(むりょうじゅきょう)というお経の中に、「和顔愛語」(わげんあいご)という言葉があります。これは仏さんのお慈悲の心の中に自分が溶け込んでいくと、自我一杯の私が、優しい顔、安らいだ柔らかな顔、それから、優しい愛ある言葉を発することができるという事が書かれています。 浄土に生まれていく人は、仏さんと共に生きているから、「慈眼」(じがん)を持ってると言うのです。鏡で自分の目をよく見たら分かりますが、光を持った、目尻の優しい、そういう目かどうか。こういう優しい目を「慈眼」(じがん)、慈悲の目といいます。 それとは逆に我を中心に生きてるひとは、普通、目が濁っています。目は心の眼と言いますから、こういう人は地獄行きですね。 またどうしても愚痴や不平不満を言ってしまう人。これも自分の我に執着しているから出てしまう。自分の正しさにです。ですから、どうしても愚痴や不平不満や人への批評や批判をしてしまう。自分はさておいてですよ・・。こういう人は「自分に甘く、人に甘く」を思い出して欲しい。 また我の執着を断つためには、どうしたらいいかと言うと、要するに「今日、自分が死ぬ」本気で思ってみることなんです。「今日、自分が死ぬとしたら、あなたの心に引っ掛かっているものは何なのか?」というものを点検したらいいんです。それをノートにでも何でも書き出して並べてみるんです。10〜20は出てくるはずです。そしてそれは、今の自分の判断や努力で解決や改善できるのかどうか、そうじゃないのか、分けていきます。そして努力して改善できるもの、今だったら自分がしようと思ったらできるものについては、執着をなくすためには、それをトットと片付けてしまうことです。気掛かりなことは、まず片付けておくことですね。 一方、今、自分がやってもできないこと、どうしょうもないことは、余計な心配ですからバッサリ切ります。そして、やれることだけのことはやっておいて、一応、今日死んでもいいようにしておくことです。 そうすると、明日から後の人生は、余分と言っては語弊がありますが、おまけのようなものですから、次の日、目が覚めて命があったら、「仏様、ありがとうございます」と感謝し、残りの人生を「ありがたい」と思って使うことです。 こうして、その日一日で寿命が終わると思って、全部整理してしまって生きる癖をつけて行くと、本当に安心して生きていけます。「一日一生」の思いで仏さんと共に生きてゆく。これが大事なことだと思いますね。 |
公然の秘密 (2007.9.19[Wed]) |
ゲーテという詩人は「公然の秘密」ということを言ってます。例えば今日、太陽が照っていることは誰にも疑えない事実です。夜になって星が出てくるのも。それにもかかわらず私たちは、それを当り前のことと思って、うっかりそのことを忘れてしまって生きてるわけです。 その明白な事実は誰の目にも明らかなことだから、かえってそれを本当に見ることができないんです。多くの人々は隠れている明白な事実、これが「公然の秘密」です。どこかに隠れていて特別な人だけが分かる。何か特殊な修行したり、学問したりした人だけが分かる。そんなものは本当の真理じゃない、本当の真理はもっとシンプルで誰でも分かるものなんだというのがゲーテの考えです。万人にあまねく公開されているんだけども、かえってそのためにわからない。それが真理というものだ。ゲーテは実に正しいことを言ってます。 「大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)」というお経の中で、お釈迦さんもそういう真理をとかれたわけで、私たちのような宿業(しゅくごう)を持った凡夫(ぼんぶ)が仏さんの「おまえを必ず救う」という本願(ほんがん)に助けられて仏さんにさせていただくというのはあきらかな真理なんです。これほど自然なことはない。そのことがなかなか分からないのは、それがあまりにも明白でシンプルな真理だからです。決して、何か特別な行をしろというわけでもない。決して何か難しい学問をしろというわけでもない。頑張って仕事で手柄を立てたり、道徳的で倫理的な一見賢そうな人間に成れというわけでもない。仏さんの本願(ほんがん)、つまり本当の願いとは実に、多くの人たちに対して無条件で開かれてある「公然の秘密」なのです。 お経を読んだり、加持祈祷をしたり、法事や葬式をしたり。とにかく仏事というのは、どこかで迷っている先祖を成仏させるためにやると言う事は、凡夫の空想、妄想妄念であって、決して真理じゃないですね。亡くなった方が仏になれる道はこの私自身が仏法を聞いて、仏の大きな慈悲の心の中に溶け込んでいくこと。それ以外にはありはしないのです。どうしても人間の頑なな我執(がしゅう)に縛られている限り、このことは絶対に分からないと思います。真理というのは、我の主張がない世界のことです。我を主張しているときはどんなに立派なことを言ったところでみんなそれは邪見(じゃけん)であって、凡夫の自己主張でしかないんです。だから必ず争いや不調和が起きる。 お釈迦さんは人類史上初めて、我を捨てて真理の世界に入られた方です。それを解脱とか悟りと言います。悟りというのは世間離れした異常なことの経験ではないのです。ゲーテが言った「公然の秘密」であるところの、大宇宙や人間のあるがままの堂々たる真理に目が覚めたことを言うんです。あらゆる人々は仏さんの「おまえを必ず救う」という本願を素直に信じて助けられて仏になっていくんだという真理を悟られたのがお釈迦さんです。これは学問じゃなく、体験によって気づかれたのです。 「ナンマンダブツ」という仏さんの名前を呼ぶことによって、人は救われていく。ナンマンダブツとは仏さんからは「おまえを必ず救う」。私からは「ありがとう仏さん」ということです。「おまえを必ず救う。心配するな」という大きな慈悲の心を疑わず信じて、そしてその仏さんの名前であるところの「ナンマンダブツ」を申す人は必ず仏になる。無茶苦茶、単純シンプル。「ナンマンダブツ」の称名(しょうみょう)が自然に口に出るようになったら人は自然と救われてゆく。このたったひとつの真理を知ることが大事なことであって、その他のことはどんな難しい学問も、修行も役に立たないと歎異抄(たんにしょう)の中には書かれているのです。まさしく仏を名を呼んで救われていくのが、この大宇宙の「公然の秘密」なのです。 |
お彼岸 (2007.9.18[Tue]) |
この十六日は「秋のお彼岸法座」をお寺でお勤めしました。お経を読んで、私がご法話をする。多くの人にお参りいただき、熱心に聴聞(ちょうもん)されました。 この時季はお墓参りの方が多いのですが、一体何のために「お彼岸」の法座をお勤めするのかと聞かれると、普通は亡くなった人々のためにお経をあげて、その功徳で故人を成仏させるであろうと思っている人が多いようです。普通当たり前のようにそう思ってるのです。 しかし、仏法を聞いていくと、そうではなくて、あらゆる法事や法座はこの自分自身が仏になる道を聞かせていただく仏縁であったことに気づいていきます。この自分自身が助かって仏になれば、仏法を聞かないで死んでいった先祖さんたちも仏にできるのです。これは「歎異抄の第四条」に書かれてある通りなんです。 何よりもまずこの自分が仏法を聞いて助かれば、すべての人々が助かる道が自然にそこに開けてくるのです。万人が仏になる道はどこにあるかというと、それはこの自分が仏法を聴聞(ちょうもん)するところにある。それ以外にどこにもありません。あるように思っているのは自分でそう空想しているだけです。ですから、先祖を供養しようとお経をいくらお坊さんにあげてもらっても、加持祈祷をしてもらっても、お墓に熱心にお参りしても、物理的に駄目なんです。なくなった方にはお経の意味はまったく分からない。とにかく生きてる子孫が仏法をしっかり聴聞して助からなければ、先祖も助かるということは無理なのです。 このことにはっきり目が開くということが一番大事なことなのでね。 人間は自分の力だけで生きてるんじゃない。我々は共同存在あるいは共生存在です。他の人々と一緒に生きてるんです。人間だけじゃなく、他のたくさんの生き物のお陰で私のいのちはあるわけです。これを仏教では縁起(えんぎ)と言います。これが人間のあり方の根本形式です。 たんに今生きてるものたちとの共生ではない。すでに亡くなった人々、つまり先祖がなかったら今の自分はここにはいないのです。しかし、先祖と自分が本当に一緒になれる方法は何でしょうか。自分がお経をあげたり、お坊さんにあげてもらったら先祖と一緒になれるのでしょうか。それは不可能です。そうではなく、自分が仏さんに助けていただく身であったと知らされたら、この生を終われば自分が仏になれるわけですから、かりにそれを知らずに死んだ人々があったとしても、その人々を必ず仏にできる。これは仏さんが教えて下さっている「還相廻向(げんそうえこう)」という真理です。決して人間が勝手に思いついた主観的な期待とか希望じゃなくて、この宇宙そのものの基本的構造のことです。 大抵私たちは人生を自分の小さな了見、つまり常識論で生きています。人生とは自分が思っているようなイメージの世界だと思い込んだまま一生を終わるのでしょう。しかし、これは真理に目覚めない生ですから地獄行きの人生です。誰が地獄に行くかというと、大きな真理に目をふさいで人生を自分の我の中へ取り組んでいるその当人が地獄にいきます。生きるために自分の我を信じて生きてますから、当然地獄にしかいけないんです。 ところが、こんな私のようなものがとっくに仏さんの力によって生かされていたんだと言う不思議に目が覚めたらその人は必ず仏になります。目が覚めるというのは、仏法を聞いてと言うことです。死ぬ前に気づくということなんです。ここのところをよくよく知っておかないと、せっかくいただいた人間としての生を棒に振ってしまうんです。とにかく、仏法を聞いてあなたが仏になる身にさせていただいたら、自然と先祖も救われていくのですよ。 |
人は処世術では助からない (2007.9.17[Mon]) |
随分私はこのコーナーで真理以外の処世術的なモノも語ってきたように思います。 ただ今回、少しばかり会社を離れてみて、一体私は何がやりたかったのか、どういう道が示したかったのか、会社に集まっている人たちにどうなって欲しかったのかがはっきり見えました。 というか、初心をハッキリ思い出したわけです。 人間は、世間に通用する凡夫のそらごと、たわごとの言葉を信用して一生を終わってまた迷いの世界に逆戻りするのか。それとも目覚めた人の語る真理の言葉を聴いて、悔いのない人生を送って、この世を去って仏の一員に加えてもらえるか、これが大事な分かれ道です。 人生の道は根本的には二つしかありません。仏さんの言葉を信じるか、我の凡夫同士の言うことを信じて「人生そんなもんだ」とすますのか、のどちらかです。しかもこれはあくまでも一人一人が自分できめないといけません。 しかし決めるといっても、自分の力だけで決めることはなかなか難しいわけです。それではどうしたらいいかというと、それは仏法を聴く以外に、仏さんの心をいただける方法はありません。自分に相談しても、仏さんを信じて無い人に聞いてもどうにもなりません。 死んだらこの自分は一体どうなるんだという大問題の解決は、学校の先生に聞いても、親兄弟や妻や夫に聞いてもまったくわかりません。仏さんに聴くしかないんです。仏さんに尋ねたら、「おまえは死ぬのではないんだよ。仏になって永遠のいのちを生きるんだよ」と答えて下さるでしょう。これが聴こえたら私たちは死ぬ前にもう助かっているんです。安心して成仏できる。 だって、死ぬことがないという安心が得れたらとりもなおさず、それが助かったということです。死ぬことが安心であったら、今生きていることも大安心です。だから仏法を聴くということは、死んでからわけのわからないお経を上げてもらって助かる(まず無理ですが)死なない前に助かるということです。必ず救うぞ、助けるぞという仏さんの言葉が聞こえたということがすなわち、助かったということです。 火葬場で遺体とお別れするときお嫁さんが「おばあちゃん、良いところに参らせてもらいなさいよ」と言ってる場面を何度も見てきました。けれども、おばあちゃんはなかなか返事をしない。 それでつらつら思うんですが、これは二つのケースがあるみたいです。一つはもう地獄に落ちた場合で、「嫁よ、無理なことを言うな。もう私は地獄に落ちてしまった」というおばあさんは返事をしません。 もう一つの場合は、「私はもうお浄土にいって仏さんにならせてもらった。わたしの心配なんかしないでお前の方こそ、しっかり仏法を聞きなさい」というおばあさん。この二つのどちらかの場合しか返事しないのです。 遺体がお浄土に行くわけではありません。遺体は火で焼かれて、骨になってこの世に残って墓の下に行くだけです。これは自然科学的にいうと物質です。しかし、私という存在の正体はそんな物質的な身体ではありません。身体は消えて無くなります。これは着物みたいなものですから、だんだん古びて駄目になって骨になります。私そのものというのは、一体なんなのでしょう。身体ではない、仏教ではそれを「心」と呼んでるのですが、蓮如さんという人は「たましい」と言っておられます。これはおどろおどろしい魂のことをいっているのではなくて、もっと崇高な「自身」「自己」「心」のことです。お浄土に生まれるのはそういう自分のことです。 この問題が解決されないことには我々の自己は生死流転を何度でも繰り返すしかないのです。私という存在はこの世だけでは決して終わらないのです。ですから、この大事な点をはっきりさせて、このなまなましい大問題を解決しておかない限り、人として生まれてきて、いくら会社が繁盛しようが、給料がベースアップされようが、人生に成功と言う文字はまったくあり得ないのです。 お釈迦さんは空想なんて一つもおっしゃってないのです。人間の本当のなまなましい現実問題について説かれたのです。お釈迦さんはこの世の空想や妄想や妄念から目が覚めた人だからです。仏さんを信じない人は、みんな空想的な人生を送っている、酒に酔っ払ってるのと一緒なんです。そして「あっ」という間に空しくこの世を去って、赤鬼や青鬼のお世話に必ずなっていくのです。 まだまだ死なんよと思い込んでる人は、よほど注意と覚悟をしておかなければなりません。 とにかく大きな仏さんの慈悲の心を念仏と共に自身の心の中にいただき、つまらない自分の我を当てにせずに、仏さんに自分を任せて仏さんの共に生きることです。すると仏さんの心に私の心が溶かされていくんです。助かったということは、溶けたということです。また執着や正しさがほとけたということです。そうすれば仏さんと共に安楽にこの世を生きることができ、やがて仏さんと共にお浄土に帰っていけるのです。このことを伝えずして、私が生まれてきた目的を果たすことはできません。その本分にしっかり目が覚めたということなのです。 |
仏は来ずに鬼が来る (2007.9.15[Sat]) |
自我力の強い人、この世に執着の強い人は鬼が来ると昨日お話ししました。 じゃあ、どういう鬼が来るのでしょうか。それは死にたくないという妄想妄念の鬼が来るのです。今頃死んでたまるかという鬼が来ます。鬼といっても別に外から歩いてくるのではありません。自分自身の心の中から湧き出してくるのです。 赤鬼、青鬼というのは自分の妄想、妄念の比喩です。この妄想、妄念は自分で生み出すものでありながら自分でどうすることもできません。私たちはみな日頃から自分の中にこの鬼を飼っているわけです。そして大きくなるように育てているのです。毎日毎日たっぷり栄養を与え、ますます自分の心を自由ではない不自由なものにしていってます。 子供の頃は本当に小さかったのに、どんどん大きくなって今や自分の言うことを聞かないようになってしまってます。 この妄念、妄想はとにかくネガティブなことを考え出してはそのイメージを勝手に膨らませていきます。そしてとにかく人を信じようとしません。必ずその人の心の中にはいくら気持ちよいことを言っても裏があると思い込んでイメージを膨らませていきます。また頼るものは自分自身、それも自分の我しかないと思い込んでます。口には出しませんが、いつも不安と恐れを抱きながら人と接することが当たり前になっています。こういう人は間違いなく救われません。必ず死んだら、赤鬼か青鬼がやってきます。 しかし、その妄念、妄想より仏さんの本願力(ほんがんりき)の方がずっと強いから、ナンマンダブツと仏の名前、本当の親の名前を呼べば少しも心配はないのです。いくら妄念、妄想が強い人でも、親の名前を呼べば仏の心が自然と湧き出してくるのが仕組みですから、妄想、妄念が起こるのをとどめる必要はありません。それはそのままにしておいて、仏様の大きな大きな慈悲の心をいただきながら、あなたの仏の心が目覚めていけばいいのです。 とにかく妄念、妄想から開放されるためには屁理屈じゃなくて、「ナムアミダブツ」の薬そのものを飲まないと助かりません。この薬はとてもよく効く薬なんです。だけど誰も飲もうとしない。「なるほどね〜」とうなずいても、飲もうとしない。仏さんは「ほら、飲んで助かれ。ほら飲んで助かれ」とおっしゃてる。「それでも私はまだなかなか飲めません」では、その人の最後は地獄行きなんですよ。飲まないことを手柄のようにしてしまっては、本当に愚かというしかないのです。 蓮如さんという人は、ナンマンダブツという薬を飲まない人のことを、「ながく地獄に落つべきものなり」とおっしゃてます。お先真っ暗ということです。仏さんの救いを信じるか信じないかはあなたの勝手ですが、棺桶はお一人様ご一人用限りですから、誰かに代わって入ってもらうことはできません。よく「地獄へ行ったら行ったでかまわない」なんて言う人もいますが、それはその人が死なないと思っているからそんなことを言っておられるんです。要するに、現代人は、この世やあの世の世界についての想像力や直観力が昔の人よりもの凄く鈍感になってしまっているのです。もう死ぬ時分になっていてもまだまだ死なないと思い込んでいますから困ったものなのです。と言ってもむしろ死ぬことが平気であるわけじゃなくて、本当は怖くて怖くてしょうがないので、死ぬという大問題から逃避しているだけなんです。とにかく忘れておこうとしているか。 けれども、そんな凡夫であっても、仏さんの大きな慈悲の心をいただきながら、仏さんといつも共にこの世を生きることができたならば、死ぬということは無いのだ、仏にしていただく身だったのだと気づくことができるんです。これは自分の思い込みじゃなく、真理ですから死んだらあなたが体験していくことなんです。つまり死んだら仏に生まれ変わる、リファインドして仏として再生するってことなんです。そういう意味でリファインドって名前をつけたんですけどね。 |
自分の力を頼る人と仏の力を頼る人 (2007.9.14[Fri]) |
仏さんのお心をよくよく味わっていくと、悪い子ほど可愛い。自分の力ではどうにもならない人ほど可愛くて捨ててはおけないということが分かってきます。 解りやすく例えていったら、子供の中でも一番頼りないのが可愛い。親はそう思います。子供の時から、親の言うことを聞かない独立心の強い子は心配しなくてもいいかわりに、時には憎たらしいこともある。 「お父さん、困った、どうしたらいいかわからん」と言ってくる子に対しては、そんなこと自分で考えろと言いますが、親としてみれば、やっぱりその子のことが気になります。仏さんも、自分のちからというものをなかなか信じることができない本当に駄目な私だと思っている凡夫、どうしていいか分からなくて途方にくれている凡夫の方が可愛いのです。とかく私たちはこの逆を考えていますよね。もっと真面目に自分の力を頼って生きてる人を仏さんは「よくやってる」と可愛く思っていると。そうではありません。そういう人は絶対に救われないんです。自分の力を頼りにしている人はなぜ救われないのかと言ったら、とにかく仏の力より自分の力を信じ、自分の努力を手柄に生きているからです。そういう人は女性より圧倒的に男性の方が多いです。また女性でも、やり手という人に多いですね。感謝より傲慢さがどうしても抜け切れないから、仏さんは救いたくても救えないのです。 とにかく道徳的にも倫理的にも悪いことをしない人とか、会社での仕事の一人前にやってる真面目な人とか、勉強のできる人とか、役職の立場を常に意識している人とか、社会的なポジションがあってそのポジションの役に成り切っている人とか、こういう人が一番助かりにくい。六道と言う迷いの世界を脱出できにくい。どこか自分の力を当てにしていますから、仏さんに任せないで、屁理屈や我の講釈を言う癖があります。どれだけ仕事が人より出来たとしても、どれだけ人一倍努力する人でも、自分の生死の問題は絶対に解決できないのです。後の世は絶対に助からないと言っていい。そんなものはこの世の世間的処世術みたいなもんですから、私たちが仏の世界に生まれることとはまったく関係ないのです。 だから、自力根性のある人が一番助かりにくい。何回も言いますが、正義感や使命感や責任感が強い人ほど助かりにくい。とにかく自分の我の正しさの思い込みによって人をことごとく心の中で裁き、批評批判し、人との優劣を決めつけているからです。こういう人は仏さんはどう頑張っても助けられないのです。もう自分の我でバリヤーを張っていますから。ただこういう人は引っ繰り返ったら、物凄く仏さんの心をいただけるようになるのも事実です。 とにかく、頼りないほうがいいのです。我を当てにせず仏さんにお任せするだけで、後は何にも要らないって分かっているからです。余計なことをくっつける必要はまったくないんです。ナンマンダブツを称えたらその功徳で助かるのではありません。ナンマンダブツとお念仏しようと思う心がふと起こった瞬間に助かるのです。これは我で一杯の心の中に本来持っている仏の心が目覚めたと言っていい。みんなこの仏性、仏の心を人間は持って生まれてきてるんです。 例えば、花や夕日を見て美しいと思う心、す晴らしい映画を観たら感動する心、何かを探求して発見したり知りたいと言う探究心や驚きの心、それらはみんな仏さんの心なんです。この仏の心が目覚めると助かるのです。その仏の心がムクムクと湧き上がってくると、仏さんにお浄土と言われるあの世で抱かれるのではなく、この世で抱かれるのです。仏さんの心に会うことができるのです。それを助かったというんです。「私は今日まで自分の力を頼って生きてきたから死ぬのが心配だったけど、仏の心が目覚めたと言うことは、もう仏さんと一緒で何も死ぬことなんか心配なかったんだ。死んだら自分の我の心の世界に還るんだからまったく心配ない」というふうにふと気づく。 これが仏さんに助けられたということなんです。死ぬ時に仏さんが迎えにくるんじゃなくて、仏の心に目覚め、自分の我をまったく当てにせず、仏の心を生きるということが助かったということなんです。そのためには仏の心を何度も何度も味わっていく。だから念仏を味わうんです。念仏は仏さんの名前ですから。何もしなくても死んだら仏と思い込んでる人、自我力の強い人には仏さんは来ません。たぶん鬼が来ます。 |
さるべき業縁(ごうえん)をもようおさばいかなるふるまいもすべし (2007.9.13[Thu]) |
ある時、親鸞さんが弟子の唯円に「唯円よ、あなたはこの親鸞の言うことを信ずるか?」とおっしゃいました。それで唯円が「もちろん親鸞様の仰せなら信じます」と答えました。親鸞さんは「本当に私の言った通りにするか」と、かさねて念を押されます。唯円は「つつしんで親鸞様の仰せの通りにいたします」と答えます。 すると親鸞さんは「例えば人を千人殺しなさい。そうしたらあなたは必ず仏の世界に生まれるだろう」ととんでもないことをおっしゃった。唯円は驚いて「いくら親鸞様の仰せでも、この身の器量では千人どころか一人も殺すことはできません」そしたら、親鸞さんはすかさず「それじゃあなぜさっき私の言うことにそむかないと言ったのか。さっきあなたは、私の言い付けに決してそむきませんと言ったじゃないか。どうして私の言う通りにしないのか」と唯円に迫ります。 そして少し間を空けて、「これで分かるだろ。もし人間のすることがすべて自分の自由意志で起こるのであったら、仏の世界に生まれるためにおまえは人を千人殺すであろう。だけど、殺そうと思っても殺せないのは、一人も殺す業縁がないからであって自分の心が善いからではないのだ。おまえ自身の業縁がもよおせばいくら殺すまいと思っても千人殺してしまうこともあるだろう」 この業縁とは過去生における自分自身の業のことです。その業が私自身の中に宿っているわけです。ですから、宿っている業が、縁に触れたら何をしでかすかまったく分からないのが人間の姿なんだと親鸞さんは言っているわけです。 最近は、あんなおとなしい人が何であんなことをしたんだろう、信じられないような事件がよくテレビで出てきます。信じようが信じまいが、現に人を殺しているわけです。毎朝ていねいに挨拶していた人がどうしてあんな残酷な殺人をしたんだろうと言ってすましていますが、これが親鸞さんの言う宿業のなせることなのです。表面はおとなしそうだけど、宿業がもよおすと、ついそういう恐ろしいことをしてしまう。 私たちは間違いなくそういう宿業の世界にいるのです。 これは決して他人事として見ることではありません。世の中にはそんな悪い人もいるもんだなとおもってすませていたら駄目です。私はたまたま宿業がもよおさなかったから、今までのところはまだ人を殺していないだけの話であって、これらはいつやるかわからないものを自分の内に抱えて生きているんです。それを始めからすっかり分かっているのが仏さんです。だから、そういう凡夫を何が何でも救わずにはおかない、仏にせずにはおかないとおっしゃるのです。 宿業とは、人間存在の底無き底のことです。いわば人の心の中には本人は気づかないけども真っ暗闇があると言うことなんです。その宿業というものを私たちは、いかなる仕方によっても抜け出すことはできないんです。ところがこの宿業が唯一不思議なことに仏さんの力によって断ち切られていくんです。だから宿業があると言っても心配しなくていい。その宿業の力より、仏さんの力のほうがはるかに強いから、そのたのもしい本願力(ほんがんりき)に宿業のまんま任せ切ることなんです。仏さんの力に任せ切るということは、自分の心の正しさや分別をまったくあてにしないということなんです。 仏教では、人間の分別心こそ諸悪の根源であると言います。どうして善悪についての分別がいけないかと言うと、それは自分の我を主張するからです。自分の我の計らいが大きな慈悲の心の仏の世界に入ることができない唯一の障害なのです。たとえば、欲が深いから仏の世界に入れないのじゃない。人間は誰だって欲が深いんです。その欲の深さが分からないものだから、つい欲を抑えようと力んでみたり、反対にこんなに欲が深かったら助からないのじゃないかと思ったりする。みんな我の計らいです。自分の我に正しさや善悪なんてまったく当てにならない。ましてや人が人を裁く、見下すなんてもってのほかなのです。 仏の力に任せると言うことは、自身の正しさや善悪を当てにせず、仏の温かい慈悲の心をナンマンダブツと共に受け取るということなんです。それが唯一宿業から開放されていく道なのです。 |
広い世界を生きる (2007.9.12[Wed]) |
愚痴というのは同じことを言うことです。同じことを言うのが愚痴の特徴で、同じところをグルグル回るから進歩がない。進歩しようと思ったら、愚痴を言わないこと。これははっきりしてます。愚痴を止めたら人間は進歩して、広い世界に出ることができます。 愚痴を言うから、狭い同じところばかりをクルクル回ってる。愚痴からは何も生まれません。 人の悪口や批判からもです。これほどつまらないものはない。だけど人間は愚痴っぽいのです。 「なんでこんなことになったんやろ」「あんたが悪いからこうなったんや」と。あんたは悪くて、私はちぅとも悪いことをしてませんという。実は自分の前の世が悪かったとまでは思いつかない。 前の世で悪いことをしているわけですから駄目ですね。前の世があるんです。この世は何もないところから降って湧いたようには生まれてこれないんです。 とにかく人間はあまりいいところから来ていません。地獄から来たのか、餓鬼から来たのか、畜生から来たのか・・・。ただ不思議なご縁で有り難いかな人間に生まれることができたんです。 しかし前にいた餓鬼の世界の習性がまだ残ってる。習性がとれない。愚痴や悪口や批判は悪い悪いと言いながら、またつい言ってしまう。そういう習性がどうしても残っているのです。これは真面目さも不真面目さだってそうです。天人は真面目で融通がきかない。心が寛大でない。だからこの世に生まれてきても道徳や倫理ばかりを大切にして、仏の大きな温かい慈悲の心をいただこうとしない。もうその人を見たらだいたいどこから生まれてきたのか分かります。 とにかく、そういった気の遠くなるような迷いの生死流転を繰り返してきた私たちを、仏さんはなんとか「迷いの世界から救いたい。脱出させたい。仏の世界に生まれさせてやりたい」と人間の世界に出してくれたんです。これは物凄いチャンスをいただいたということなんです。 ただ人間は前の世の習性が残っているものだから、その物凄いチャンスに気づかずに、また習性を繰り返しながら、不安のままにいつのまにか死んでいってしまう。そして元の迷いの世界に還っていく。もう二度と人間に生まれられるかどうか分かならない。こんなチャンスをいただいたのにもかかわらず、とんでもない方向に迷っていってしまう。実に愚かなのが人間の姿なんです。本当のことに気づけない。それよりも目先の生活や肉親や利害損得のことばっかり考えて生きている。 もう仏さんの世界からはそんな姿が丸見えなんですが、まったくそんなことにはきづけずに、この世の利益ばかりを考え生きていってしまう。そして前の世の習性につかまっては、また同じことを繰り返してしまってる。そのことに「気づけ、目覚めよ」と仏さんはいつもいろんな方面から人を使ったり事象で見せたりしながらも信号を送ってくれてるんですが、これがサッパリ分からず、また空しく死んでいくんです。 だから、人間は日々、仏法を聞く必要があるんです。仏法を聞かないとどうしても前の世の習性、癖を繰り返して生きてしまうんです。いくら自分の力で頑張ったとしても、仏の広い世界、寛大な世界、大きな慈悲の世界を生きることは到底無理だからです。 とにかく、死ぬのは悲しい、死ぬのは嫌だという思いを本当に持っている人だけが仏に成れるのです。仏法を真剣にこうとするからです。それを持って無い人は、今度死んでも無理です。 今度生まれたら猿かもしれない。死にたくないという思いを本当に持っている人が仏法を聞いて仏になる。本当に不安を持っている人だけがその命の不安がとれるのです。中途半端に持っている人は無理です。親鸞さんやお釈迦さんは徹底的に死にたくなかった。私たちは中途半端なんです。中途平端では仏に成ることは物凄く難しい。本当に永遠のいのちを生きたい人だけが、仏の心をいただいて六道という迷いの世界を脱出し、大きな大きな慈悲の世界、仏の世界生まれることができるのです。 |
仏の大慈悲心と共に生きる (2007.9.11[Tue]) |
私という存在はどこから来たのでしょうか?あなたはそのことを真剣に考えたことがあります か? 私はどこから来たのか。この答えは始めもない迷いの世界から来たのです。地獄(じごく)・ 餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人間(にんげん)・天上(てんじょう) という六道(ろくどう)いう迷いの世界から来たのです。 | もしかしたら生まれる前は猿だったのかも知れない。顔を見たらだいたい分かるんです。落ち ・着きがなくいつもキョロキョロしている人は、ひょっとしたら、お猿の生まれ変わりかもしれな い。お猿がお寺の鐘の音を聞いで、ご縁が出来て、人間に生まれてきたのかもしれません。 また天人みたいな人は、仏法を聞こうとしません。お浄土の話を聞いても、地獄の話を聞いて も知らん顔をしている。何も不自由がなかった天人が人間に生まれてきた。仏に成れなかったか ら、また人間に生まれてきた。この世でも何不自由なく生活して、真面目なつもりを生きている。 だから仏はほっとけで、自分の力で生きていると思い込んでる。死んだらまた天人の世界に還る のだろうけど、六道という迷いの世界は絶対に脱出できない。一見、楽しそうに見えても結局は 迷いの中なんです。 ↑ 親鸞さんという人は、そういう人のことを「うかれまいたるひとなり」と言われてる。どんな 真面目な生活を送っているといっても、仏さんと共に生きていない人はどこかお酒に酔っ払って いる。酒に浮かれていい気持ちになっておる人だというふうにいわれるのです。 今、人間である私は何のためにこの人生を生きているのか。この人生を終わるというのは、死 とよんでいるこのことは、何なんだろう。この「私」と長年つきあってきた、だれよりも自分の ことをよく知、っていると思っている「私」というものの正体って一体何なのだろう。この間いの 。 答えは、仏法を聞いて初めて分かつてくるんです。 1 そうすると謎が解けて気持ちの悪いモヤモヤが無くなっていく。それで心に平和ヤ生まれて くる。そうすると、人に対して寛大になぅていきます。人間は「どこから来たのか」「どこに 還ろうとしているのか」「自分とは何物なのか」という三つの問が解決していないから無意識の うちにイライラしている。いつも不安を抱えながら生きている。人に対して寛大でないというの は、自分の中にイライラや不安があるからです。死ぬのか謙だ、死んだらどうなるのかさっぱり 分からないという気持ちがどこかにあるからです・ だから病院の患者さん同士というのは仲良くないようです。それはなぜかといったら、自分も 死ぬかもしれないという気持ちがあると、そのイライラがつい外に出てしまうからです。自分が 間もなくこの世を去っていくからといって、仲良くするという気持ちになれない。対人関係でも とげとげしいものになっていくということがあるようです。 く うちの母親も病院に入院していますが、病室の雰囲気は実に明るい。これは母親の力というこ とじゃなくて、やはりイライラしないように仏さんがして下さってるんでしょうね。すべては仏 さんのお陰です。 I だれでも病気を抱えておったらイライラするはずだけど、それをしないように仏さんがして下 さってる。やはり、私が仏さんに助けられていく身だということが分かっていますと、人様にも 親切になってくるものなんです。そうすると、相手もそれによって慰められるということがあり ます。 l だから一番大事なのは、要するに仏さんに助けられることの間違いない私だったといヽうことを、 命のある限り知らしてもらうことなんです。このこと一つを分からせてもらうために、私たちは この入間の身体をいただいたわけなのです。 | |
生きるも死ぬも他力 (2007.9.10[Mon]) |
清沢満之(きよざわまんし)という明治時代に有名な仏教学者がいました。 この人は仏さんの力、つまり他力とはどういうものなのかを実にうまく表現しています。 そして、私たちは実に不思議な世界に生かされているということもです。 例えば、自分で内臓でもどれ一つ自分の意思で動いていません。一度も頭の検査をしていないのに、ちゃんと頭は動いてくれているし、心臓も血管も肺も私の意志とは関係なしに、ちゃんと動いてくれている。これが不思議なことなんです。 この私の生理的な身体組織すら、私の力なしに私の意志以上の力によって働いているということ。これが仏力(ぶつりき)、他力によって生かされているということなんです。 おおよその人は、仏の力というと、大抵死ぬときに助けてもらう力だと思っている。この世に生きてる間は、自力でいかなきゃ、というふうに思っている。そうじゃないんです。他力とは、仏力とは、この世もあの世も貫通して、私を生かして下さっている仏さんの力を言っているわけです。だからこの世の中で働いている他力というものに眼が覚めないと、いくら神棚を祭ろうが、仏さんに手を合わそうが、本当に他力に眼が覚めたことにはならない。 私が今、原稿を書いています。スラスラ書けています。わしも頭がいいから上手に書けるなあと、こんなことを思ったらそれは私の我が思っているわけで、そんなんじゃ駄目。それは仏さんが「それ、書け」とおっしゃってるんです。仏さんが手を貸してくださってるから、私が原稿を書けるんだ。それで、あるところまで書いてて、ちょっとつまってしまうと、次にどう書いたらいいのかわからな 普通なら、自分のせいにして、自分の技量や頭脳が足りないからと、自分を責めるけれど、本当はそうではなく、仏さんがそこで「ちょっと休憩しなさい」と言ってるわけです。そしてまた書き出すと、「それ、書け」とおっしゃっているわけです。原稿を書くという、自分の力で行われていると思っていることでも実はみんな仏さんの他力の働きなんです。 他力でないものは何一つないと清沢満之という人は実感して言ってます。 だから私生活でも、仕事でクヨクヨせんことです。仕事にゆきずまったら、仏さんが「そこで、ちょっと休め」と。そして上手いこといきだしたら、仏さんが「それ、行け」とおしゃっておられるのです。 また清沢満之という人は、「この私は誰か」という問いに、「私は今ここで仏さんの力に乗ってる人間なんだ。お浄土にいくときだけに乗るのではない。すでに仏さんの力の上に乗って生かされておるのだ、そういう存在のことを自己と、こういうのだ」と。 つまり、私って何ですか。「人間です」「◎◎誰べえです」なんてのは答えにもなんにもなりません。仏さんの頼もしい大きな本願(ほんがん)の力の上に乗って、そして今ここに守られながら生かされている、それが「私」というものの正体だと、そういう自己の発見をする。これが仏教なんです。そしたらその力に乗っている限りは、その力は崩れたりなんか絶対にしないわけですから、安心じゃないですか。どんな苦しい人生であっても、どんなにいろんなことが起こっても、何も心配することはない。仏の大きな慈悲の中で生かされて生きるということは、そういうことにびっくりするのです。 今まで自分の甲斐性や力で自分の人生を一人で生きてきたと思ってきたこの私が、実はまったくそうではなかった。私を超えた不思議な力によって生かされ生きている私であったと気づかされるのです。 それが真実に目覚めるということなんですよ。 |
「旅先で出会う人は不思議とみんなすごくいい人に見える」 (2007.9.7[Fri]) |
京都に来てもう何日になるのでしょうか。 僕は旅をするのが好きです。僕にとって旅とは、新鮮な幸せの姿を見つける行為だからです。 迷い込んだ街にしろ、目指してきた街にしろ、地球上のどの街でも、人々はそこで当たり前に生きています。大根を売っていたり、お土産を売っていたり、朝早くから喫茶店をやっていたり、そこにある生活や人々の行動はみんな当たり前にあるもの。 どこの空の下にもあたり前のほのぼのとした愛があり、どこへ出掛けても自分は今日も生かされている。そんな幸せの得点スタンプを押していくのが旅です。 京都に来てもう何日。京都ホテル、白河院、花屋、嵐山、旅館を点々と変えながら、最後に到着したのが、八坂神社の裏手を山に向かって登った「吉水」。ここは外人さんがよく連泊される旅館。この旅館にはテレビがない。だから外部からまったく世俗の情報が入ってこない。これがまた非日常的で有り難いのです。 旅の空の下には、とくにこのような非日常的な時間空間では、平凡なことが平凡でなくなったり、発想が逆転したり、一つだった答えが二つにも三つにも増えたりします。また旅の中でさまざまな出来事を経験するお陰で、出掛けた先でも何か見つけるとともに、今まで自分がいたところをもう一度見つめ直すというもっと大切なこともできるようになるのです。 何かを買いにいったり、見にいったり、食べにいったりするのではなくて、また何かを探しにいくのでもなく、たまたまその場所に行ったことで、心の中に何が生まれるのか、何が生まれたのか?そんな自分自身を再発見するために旅をしているのかもしれません。 旅先で出会う人は不思議とみんないい人に見えます。こちらが旅の途中のせいか、陽気で穏やかで、何の苦労もないように見えます。 でも、親しく会話をしてみると、びっくりするような苦労話がでてきたりします。それぞれの人を知れば知るほど、人は人生においてみんな恵みと艱難を与えられ、その両方を得ることで輝くことができるのだと感じます。さまざまな苦労を経験することも、自分自身がより輝くために与えられている・・・。そう実感します。 いいことも悪いことも含めて、人は過去にこだわってしまうものです。過去のことを語り続ける人は多いですが、未来について延々と語り続ける人はまずいません。未来は不透明だからでしょうか。自分の未来と現在が不安で不安でしょうがないから、過去をより所にしてしまうのでしょう。でも過去の時間を取り出して、もう一度見せることはできません。思い出せない過去もたくさんあります。記憶違いも沢山あります。僕はそれらの部分はなかったと同じだと思うのです。すると過去は、話の中にだけ存在する幻のようなものだということが分ってきます。 この旅は、過去を栄養にして現在ある自分を大切にし、未来をもっと輝かせなさいという、仏さんからのプレゼントだと、そう考えても思えてなりません。 そして現在とは過去と未来のすべてが凝縮された「価値ある時間」、その価値ある時間を仏さんの心を感じながら生かされて生きている。過去の出来事が、僕の心を確実に育み、僕の中にある仏の心を強くしてくれました。そんなことを、一杯感じられるのが今回の旅ですね。 |
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