「僕が考えるビジネススタイル(6)」 (2007.5.31[Thu]) |
昨日は「お客さんとの絆」の必要性をお話ししました。 次に「スタッフ同士の絆」です。これもあまり取り組まない会社が多い。 会社というものは、一そうの船のようなものです。船出すれば順風満帆の時もあれば、いきなりの暴風雨もある。 どんなときでも、みんなで力を合わせていかなければ航海はできません。だからこそ、一緒に働いてる仲間たち、そして、ビジネスに協力してくれたり、援助してくれる人たちと絆を結んでいかなければなりません。 職場の仲間と関係者は、一緒に船を漕いでくれる同志だということです。とにかく関わる人たちと、表面的な付き合いでは絆なんて生まれません。もっと内実的なものでの信頼関係がないと絆は生まれないのです。 とにかく絆でつながっていないと、面白くありません。また、絆でつながっていないと、人というのはパフォーマンスも悪い。要するに「言われたことしかやらない」という現象になって現れてくるし、それで「いくらお金くれるの?」「残業費出してくれるの?」というような、単なる契約関係になってしまう。こういうのは、僕たちの目指すものではない。実に楽しくないからです。 これは、お客さんとの関係にしても、取引会社との関係も、ぜ〜んぶそうです。絆がないと、楽しくないし、新しいサービスやパフォーマンスも提供できない。これじゃあビジネスも成功しません。 また今日、社内だけでなく雇用形態は外部スタッフも入ったりしてますから、そういう雇用形態のなかではなおさら、絆がないところはバラバラになっていきます。するとサービスも一貫性がなくなります。お客さんも一貫性のないサービスではとまどいます。 だから、給料を沢山出して専門家を雇うなんて、「絆」を崩壊させる何物でもありません。専門家はすべてそうとは言いませんが、周りのスタッフより少し専門的に優れているという、鼻持ちならない態度が必ず不調和と不快を生んでいきます。結局その不快なエネルギーを受けるのはお客さんであるわけで、もともとそんな状態になることを知っていて、僕が黙認するわけがないのです。 次に「売ってるものとの絆」をつくるです。 これは会社によっては製品であったり、提供しているサービスだったり、扱っているものです。この売ってるものを、あなたが信念を持ってお客さんに「これはあなたにとって絶対にいい」と言い切れるかどうか、ということなのです。こんな素晴らしいものが世の中に存在することを是非教えてあげたいと、心から思えるかどうか、これが実に重要なことなのです。 言い切れる、思えるというものであれば、それは「絆がある」ということです。たとえば、うちの「水洗い」であれば、「自分の大切な人に体験してもらいたい」「是非うちに出してケアしてあげたい」とかと思えるかどうか?そう思える水洗いでなければ、僕たちのビジネススタイルでは売るべきではない、ということなんです。 つまりそういう意味で、自分と絆のないものは売ってはいけない。特に、相手にとって明らかに害をなす、あるいはあまりいいものじゃないと自分でも疑ってるものを自分の良心を偽ってまで売るということは、何と言っていいか、ビジネスとしては言語道断であるわけです。 これはビジネス倫理やお坊さんの立場で言ってるのではなく、そういったビジネスや会社は必ず崩壊するのが世のルールであるし、今後加速的に起こってくる時代の流れだからです。今まではよくてもね。 なぜかというと、先程までお話しした絆のある相手、「お客さん」「一緒に働く仲間」の信頼と信用を必ず裏切ることになっていくからです。つまり隠していた不実が必ずバレるってことなんです。 絆において絶対に裏切ってはならないものは、信頼であり信用です。絆をつくって生まれてくるものは信頼であり信用なのです。そして、その中の信頼で結ばれた人たちが、僕たちのビジネススタイルではビジネスの源泉なのです。リッツカールトンのポリシーは「決して約束を裏切らない」です。それはまさしく自らを常に自戒しながら絆を失わないと言っていい。ブランドとはそういった絆を失わない意識の高さからでしか、決して生まれないと思っています。 ☆「お客さん」「一緒に働く仲間たち」「売る商品」この三つ絆なくして、成功もブランドも有り得ません。この絆をないがしろにしてきた人や会社は、必ず崩壊していくのが21世紀の時流です。 |
「自己評価を得るためには依存や傲慢から抜け出す」 (2007.5.30[Wed]) |
僕は「僕が考えるビジネススタイル(4)」の中で、「自分が誰かの役に立って喜んでもらう経験が自分を肯定する感情につながる」とお話ししました。 当然のことですが、ここでの「誰かの役に立って喜びをその人から与えられる」のと、誰かから喜びを与えられたいと人に依存していくのとはまったく違います。 依存は、愛されたいという甘えから起きます。情に溺れ、自分を見失った状態が依存です。 愛されたいという思いは誰もが持っています。ただ人に甘える場合にも礼儀がないとおかしくなっていくのです。 例えば、人に愚痴を聞いてもらいたいとする。そういうことってあるわけですが、先に相手に「愚痴を言わせてもらっていい?」と頼んでから愚痴ること。頼まれた人はきっと快く「いいよ」と言ってくれるでしょう。泣きたい時もそう。「泣いていい?」と頼めばいい。そして最後に「ありがとう」と感謝する。これが「礼儀」です。 どうしょうもない寂しさの渦中にいる時に「ごはんを一緒に食べてくれる?」「一緒にいてくれる?」と、友達に頼むのは、決して悪いことじゃない。反対にそれを受け入れてくれない人は友達じゃない。 実は、そういうふうに「頼める」のは、「してくれる」という相手の愛に気づく感性を持っているからです。感謝ができる人は、相手が自分のために「わざわざ一緒に来てくれた」「嫌な顔をせず時間を共有してくれた」と、愛をもらったことがわかります。 逆に愛がない人は基本的に感謝がない。傲慢なくせに、傲慢と認めない。だから常に責任転換して「あの人がこうだから」と責任は人に押し付けてしまう。実に傲慢です。 人間はちっぽけなもんです。誰もがちっぽけでたいしたことはありません。なぜならば、大病になって自分では治せないし、天気一つ変えられないし、今日一日こうやって生きてるのも目に見えない大きな力や周りの人たちに生かされているからであって、一日生きるなんて自体、実は奇跡のようなものなんです。 そんなことがちょっぴりでも分かっていたら、常に自分のことを「自分はたいしたことない。そんな自分にこんなことまでしてもらって、本当にありがたい」と感謝できます。実はそういった感謝の心が育っていくと、人は依存という呪縛から抜け出せるんです。この感謝の心が育たない限り、人は傲慢で、依存心が凄く強い。凄く強いから、すぐに人の責任にしたがるし、甘えが強い。だから、仲間との絆、お客さんとの絆、商品との絆が結ばれていかない。 たとえ何かに秀でていようが、こういう人が成功するなんてあり得ません。まさに潜在意識の「全体性のルール」が働いて、必ず心の歪みによってマイナスへ引っ張られていくんです。 「生かされてる」「恩になっている」「みんなに世話になっている」という感謝の心がどこにでも、誰に対しても向けられていれば、その人は依存の呪縛から離れていくことができます。 ☆礼儀があるから愛される。 |
「僕が考えるビジネススタイル(5)」 (2007.5.29[Tue]) |
僕たちの伝えるビジネススタイルをある人は「ばかばかしい」と言い、ある人は「理想論だ」と言い、ある人は「いいよね、でもね」と言い、ある人は目をキラキラ輝かせて「是非仲間に入れて欲しい」と言う。 まあ、世の中にはいろんな人がいて、いろんなビジネススタイルがありますから、それはそれでいいんですが、ただ言いたいのは「自己欠如のまま亡くなったら、この世でいくらハッピーもどきでも、成仏はまずできんでしょうに・・」なんですね。これは葬儀執行のプロですから、はっきりお伝えしておかねばなりません。 さて、昨日までは僕たちのビジネススタイルを形成する@「自分の“いのち”が満足と喜びを生むことをやる」A「長期的視野でビジネスを見る」B「気持ちいいか気持ち悪いか」「カッコイイかカッコワルイか」がビジネスの尺度C「競争しない」D「喜びを与えようとするリーダーである」をお話ししました。 そして次の4つが、そのビジネススタイルの原則になります。 その@が、「絆をつくる」です。 この「絆」は、たとえば、効率重視や短期利益追求の視点から見ると、ナンセンスな話なのです。実力とある程度の協調性さえあればいいわけですから。 まあそれはそれとして、この「絆」についてお話ししましょう。 その絆は「お客さんとの絆」「スタッフ同士の絆」「自分たちの売ってるもの(サービス・商品・情報など)との絆(仏教保育との絆)」です。 まず「お客さんとの絆」です。 実はお客さんと信頼関係や絆をつくろうとしている会社って、実はほとんどありません。うちの場合は、ニューズレターで絆つぐりを実践しています。これは遠距離恋愛がうまくいかないように、コミュニケーションを保たないと人間関係は希薄になってしまうものなのです。毎月、毎月、お手紙を出す。そこに会社の近況報告を書いたり、僕の感じたことを書く。 メール担当の佐生くんが「代表、このメール」と言ってはお客さんからのクリーニング依頼のメールを持ってきます。その中には「いつものトイレットペーパーが破れない洗いでよろしくお願いします」とか「◎◎◎◎に負けるな!」とか、「おっ、読んでるんだなあ〜」というものが数多くあります。なぜこのようなことが起きるのでしょうか?それは「絆」ができている、もしくは生まれつつあるからです。 違う言い方をすると、NCはお客さんにとって、ただ単にクリーニングを依頼する相手ではないということです。それが「絆」のある関係です。 お客さんとの「絆」がこうして生まれていくビジネススタイルでは、そういうことをしないビジネスの世界とは全く異質のことが起こります。 まずお客さんは「あまりディスカウントを期待しない」のです。また「お友達をとにかく紹介してくれます」。これはニューズレーターを出したかということたけではなく、うちのオペレーションの感じの良さであったり、見解書に書かれた親切さであったりもするわけです。 要は、どんな方法でもかまわないから「お客さんとの絆」をつくるってことなのです。 この絆をつくるということがとても大切で、そこに僕たちのビジネススタイルの大きな厳選があるわけです。 ☆僕たちのビジネススタイルを形成するのは@「自分の“いのち”が満足と喜びを生むことをやる」A「長期的視野でビジネスを見る」B「気持ちいいか気持ち悪いか」「カッコイイかカッコワルイか」がビジネスの尺度C「競争しない」D「喜びを与えようとするリーダーである」です。 その次にそれらを構成する四つの原則があります。その一つが絆です。つまり「お客さんとの絆」「スタッフ同士の絆」「自分たちの売ってるもの(サービス・商品・情報など)との絆(仏教保育との絆)」です。 |
「僕が考えるビジネススタイル(4)」 (2007.5.28[Mon]) |
僕たちのビジネスは「気持ちいいか気持ち悪いか」で決め、「競争しない」ためにファンを増やす努力をする、ここまでお話ししました。ここら当たりにくると多くの経営者が「そんなことができるのは、なにか、宗教じみてますねえ〜」と、不思議な感覚を持ちます。 そういうことを思われる人は、何度も言いますが、ビジネススタイルが全く違うので、理解できないのです。またこの手の経営者は、スタッフを時間賃金で雇っている人たちと言ったらいいです。まずそういう人の中には、人に幸せを与えたり、人を成長に導くリーダーは、まずいません。 さて次のDは「喜びを与えようとするリーダーである」です。なぜ、うちのスタッフが他の企業の人から見たら「宗教がかってる・・」と不思議がるのか。それはうちのスタッフたちがリーダーを目指しているからです。また彼らはリーダーが一番“おいしい”と知っているからです。なによりも、リーダーは喜びが得られるからなのです。 人には「喜び」っていうものが物凄く大切なのです。しかも、誰かの役に立って喜んでもらえることからくる「喜び」が。そういう意味でも、人にとって喜びのある仕事は、かけがえのないものです。 ここで一言だけ喜びがなぜ大切かを言っておくと、自分が誰かの役に立って喜んでもらえたという経験、これが「自分という人間を肯定する感情につながる」からです。僕が常に言ってる「自己評価」が育つということなんです。 僕は過去多くの人たちから人生相談を受けてきましたが、経営者を始め、老若男女に至るまで、どれだけ地位や名誉やお金があろうと、この「自己評価」が育ってない人があまりにも多い。そういう人たちがビジネスを頑張って、一見表面的な成功を味わっても、必ず何らかの原因でおかしいんですよ、これが。つまり「自己評価欠如」の人たちは、必ず成功した自分を無意識に「自己否定」していく。自分を愛せない心の空洞はお金が入ったぐらいで満たされるものではない。人に認められ、感謝され、喜ばれてはじめてその空洞は埋まっていく。それが「自己評価」「自己肯定感」「安心感覚」というものなのです。 この「自己評価」「自己肯定感」「安心感覚」が人にとって一番大切なものなのです。これを埋めてもらうために僕はお寺から離れて現場でビジネスをやってると言ってもいい。とにかく自分という人間が存在していても誰にも喜ばれないという感覚が「自己評価欠如」という状態を生んでいくわけで、これは人にとって決定的につらいことなのです。 今の世の中沢山の人たちの自己評価が失われたり、揺らいだりしています。だからこそより一層、ここでいう「喜び」が大切であるし、うちに集ってるスタッフたちも、この喜びを得ようとうちの場を通して喜びを与えられるリーダーとして育てられているのです。それはまさしく彼らの「自己評価」そのものを育てられていると言っていいのです。 僕たちのビジネススタイルでは、社会の中での自分の居場所を得ることができます。それは僕たちのビジネススタイルを実践するうちのスタッフたちをずっと見てきて、確信することがあります。それは、彼らとお客さんとの関係が、単なる売り買いの関係ではなくなっているということです。これはNCとの取組スタッフともです。 もっといえば、彼ら、僕たちのビジネススタイルの実践者たちは、ある意味お客さんの上に立っています。普通は売り手がお客さんの下にいることが多いにもかかわらずです。ここで上下という言葉は語弊があるので、そのお客さんたちを良い方向へ導くリーダーであるということです。お客さんに、好かれ、感謝され、尊敬されるからこそ、お客さんに「あなたがいてくれないと困る」「あなたがいてくれないと楽しくない」などと言われるのです。それは、彼らの望まれる居場所が、この社会の中にあるということです。そういう「自分の居場所」「自己評価」を仕事を通じてつくれることが、僕たちのビジネススタイルなのです。 この「ボスのそらごと」を読みながら、僕たちのビジネススタイルに共感して新しく自分の人生を開拓したい人は、うちに来たらいいね。今は踏ん張り時で、給料も安いし、ハッキリ叱られるし、普通の企業から比べたら何倍も仕事をする。でも、みんなワクワクしてワッハハが一杯。自己評価が育ってるからなんだな。実はブランドって、こういう習慣から生まれてくるものだと僕は思ってるんです。 ☆リーダーを目指して「自己評価」が育まれるのが最高の喜びなのです。 |
「僕が考えるビジネススタイル(3)」 (2007.5.27[Sun]) |
さて、ビジネススタイルのAは「長期的視野でビジネスを見る」でした。 今日はそのBの、「気持ちいいか気持ち悪いか」「カッコイイかカッコワルイか」がビジネスの尺度となる、です。ここであえて言いたいのは決して「儲からないか、儲かるか」だけが尺度ではない、ということです。 どう考えてもビジネス自体が「気持ちいい」「カッコイイ」「美しい」「快適」でないと、僕自身もそうですが、スタッフ自身も、またお客さん自体も楽しくないし生き甲斐も持てない。とにかくワクワクしないし、結局面白くない。どうして「気持ち悪い」「カッコワルイ」「美しくない」「不快」なビジネスで儲かることができるのでしょうか?僕にはそういう世界を生き続けている経営者の価値観や考え方が不思議でなりません。 こんなことを言うと、よく「ビジネスについての考えが甘い」と言う人がいます。そういう人はそういう世界で生きてもらえばいいんです。そういう人たちのビジネススタイルがあるわけですから。 あくまで僕たちはメリットやデメリットを超えた「豊かな感性の世界」を生きようとしているわけです。それはマズローの五段階の要求でいう、五段階目の「自己実現の欲求」に満たされた日本という経済大国の段階ではこれが可能だと感じているからです。 あるテレビで、お客さんに「どうしてあの会社を選ぶの?」「どうしてあのお店のお客でいるの?」と聞く番組がありました。すると「安いから」「便利だから」だけではなく、「カッコいいし」「いい感じだから」「ニーズにあってるから」「安心だから」という言葉が圧倒的に多かったです。 どこもかしこも安さや便利を強調して個性もオリジナリティーもない。もうお客さんはそんなディスカウントや便利の世界には飽き飽きしてきているのです。それよりも商品やその会社に自分が選択する「価値」や「意味」を見出した方がよほど満足いくものなのです。 だから、ということではありませんが、僕たちのビジネススタイルは、お客さんから好感を持たれ、信頼され、ちょっとばかりの社会貢献度で尊敬される会社になる、ということなのです。しかしこれがまた、まったく異なるビジネススタイルから見たら、まったく儲けるビジネスとは見えていかないのです。 さて次のCは、「競争しない」です。「ライバルと競争しなくていい」。これも大きな特徴です。ライバルはいなくなるんです。 これはどういうことかと言うと、僕たちのビジネスススタイルは、独自のビジネスをどんどん築き上げていって、それが「いいよね」と共感してくれる人を増やす活動なので、他社と競争することもない。だからディスカウントも必要ないし、過度の過剰な行動を取ることもない。もう一度言いますよ。あくまで僕たちのビジネスは僕たちのビジネス活動に共感してくれる人を集めるのが目的です。 ただ、その手の競争が存在しない代わりに、常にファンを増やす、常に自分たちの会社、お店を支持してくれる人を増やす、あるいは減らさない努力、創意工夫ということは重要なことになります。ですからお客さんとの絆づくりである「サンキュレター」や月一度の「ニューズレター」も、アパレルスタッフの学習資料「週刊ナチュラル・ケア」の発行も当然そうです。また社内スタッフの意識レベルを上げ続けたり、情報の共有化を図る日々の「変化表」の提出や、社内報「すなお」の学習もそう。また藤井さんたちの指導を受ける、「新システムの構築」や「ラインの改善」なども当たり前。また新しく熊谷さんが受け持つ「ネットのリニューアル」や「新規顧客の販促実施」も当然必要ということになります。競争にエネルギーを使わない代わりに、自分のビジネスを深めていかなければならないからです。 またそのためには、自分自身の知識や技術などを増やしたり高めたりして深めたりして、誰かの役に立つ「自分ができること」を、増やしたり高めたりして深めていくことも必要なのです。 この9月から二つのデパート、一つのショッピングモールに出店予定です。すべて先方からの依頼ですが、まだスタッフ募集すらしていません。この少ない人員の中でさらにそれらのスタッフをもまかなおうとしています。募集しても、その若干名は補助要員のつもりです。こんな人事状態は通常考えられないはずです。ただ、この短期的な圧縮法によって、うちのスタッフたちはさらにリーダーに育ちます。のことによって、さらにサービスのプロとしての自信を深めてくれます。それが募集を焦らない理由なのです。競争しないためには、常にファンを増やす努力を楽しくやっていくってことなのです。 ☆ ビジネスは「気持ちいいか気持ち悪いか」で決め、「競争しない」ためにファンを増やす努力をする。 |
「僕が考えるビジネススタイル(2)」 (2007.5.26[Sat]) |
昨日僕がお話ししたビジネスの成功の定義とは「仕事を通じてよりよく自己成長でき、感謝と価値のある人生を刻むこと」。その「感謝と価値」とは、「自分ができることを精一杯やって、誰かの役に立ち喜んでもらうこと」である、でした。 そして、どうやって「感謝と価値を生むの?」かと言うと、その@として、「自分の“いのち”が満足と喜びを生むことをやる」でした。これはモラルハザードではなくね。 次のそのAは、「長期的視野でビジネスを見る」です。 つまり「どれだけ短期間に儲かったか」ということに、あまり高い価値を見いだしません。もちろん資金繰りなどの理由で、どうしても短期的な利益を重視しなければならない場合もありますよ。 ただこういうことなのです。「会社作りと米作りは似たようなもの」。化学肥料をバンバンやって米作りをやると、一見すぐに大きく伸びて、効率よく育つように見えますが、稲は弱い。しっかりと地中に根を張っていないので、台風なんかがくると、途端に倒れます。おまけに土地も駄目になる。 一方で有機栽培だと手間もかかるし、短期的には効率も悪いけど、根っこが地中にしっかり伸びていて、稲は強い。土地も悪くはならないしね。 これは「技術」もそうだけど、一番大切なのは「人」です。 その「人」のうちの大切なのは「お客さん」。特に自分の会社を好いてくれているお客さん。また来月も自社でお金を使ってくれる「行動」をしてくれるお客さん。そんな人たちが何人いるのかが、自社の強みのバロメーターです。 そういう存在は、ほんの短期間では増やせない。目先の結果だけをみてあれこれ・・ということでは、お客さんは増えません。ましてや商品や数字だけを見ていても、駄目なんです。いつまでたっても一見客しかいないことになってしまう。 その結果が「今日」や「今月」の売上が悪いということになるんですが、短期の収益性を重視するビジネスモデルからは、ここが分かりにくいのです。まあ、長期的な視野にたった活動によって、つまりは「今日」の売上をもたらしてくれるお客さんをたくさん生み出すのですが・・・。 もう一つの人、それはビジネスを支える「人」である、スタッフたちです。 これは、社内の人材育成にしても、外部スタッフとの人間関係にしてもやはり短期的視野ではどうにもならんでしょう。 NCは現在は需要も多く伸びていますから、よく「給料を高く出しても専門家やオペレーターを雇うべきです」と意見もあります。ただそれはグローバルスタンダードの価値観で、僕たちのビジネススタイルではない。だから、募集して面接を何度繰り返そうとも、ここのスタッフたちは「僕たちのビジネススタイルに共感したり、僕の生き方や考え方に共鳴する人」です。これは良い悪いではなく、価値観の違う絆の無い者同士がうまくいくはずがないし、結局はそれでお客さんに迷惑をかけます。 そういう人たちは時が来れば自然と集まってくるものですが、それまでは、多能工で乗り越えてきている現状がありますよね。それも“いのち”の喜びと共に、自己成長や実力までつけさせてもらいながらね。 ところで、ビジネスの長期的視野というと、どうしても経営効率は無視せざるを得ないようなイメージがあるんでしょうが、実際は僕たちのビジネススタイルの方が長期的には経営効率すらも良いということを、これから証明していくようになりますよ。 ☆どれだけ短期的に儲かったかじゃなく、長期的視野でビジネスを見ていく。 |
「僕が考えるビジネススタイル(1)」 (2007.5.25[Fri]) |
今日から少しビジネスについての僕の考えをまとめておきたいと思います。うちのスタッフたち、関係のある商店や企業のトップやスタッフの皆さん、そしてまた、今、NCと取り組んでる諸々の方々や企業、そして今後NCと取組みを考えていらっしゃる企業や諸々の皆様がいらっしゃいましたら、是非、これから僕がお伝えすることを共感や承諾いただいた上で、できるだけ心オープンにお付き合いできればと考えています。 そうじゃないと、いつか、どこかで不調和が起こって、「そんなはずではなかった・・」なんてことになったら、お互いが嫌ですから、そこのところは宜しくお願いします。 さて、世の中にはいろんなビジネススタイルがあります。一般的なのは「グローバルスタンダード」というもので、「効率を追求し、できる限り短期に利益を最大化していくものである」という信念に基づくビジネスの在り方です。世間の企業のほとんどがこの在り方です。 ここでの成功者とは、どれだけ短時間で最大の利益を得られるか、ということになっています。ただ、こういったビジネススタイルの場合、アメリカ型社会の原則というものに則って作り上げられた経済システムですから、僕自身は、調和を尊ぶ日本人にはどうも合わないような気がしています。いろんな企業を回ってみましたが、従業員さんたちの仕事に対する生き甲斐の希薄さ、自分に対する自己評価の低さを見ていけば、なんとなくそんな気がするのです。 で、ここで僕は、「こういうビジネスの在り方は間違ってる」とか、「では正しいビジネスとは何か」という話を改めてしたいわけではありません。そんなことはどうだっていい。 それより自分たちは何を目指し、どう生きようとしているのかが大切ですね。つまり、僕が目指しているビジネススタイルとは何かを改めてお話ししたいのです。それがしいて言えば、NCのビジネススタイル(僕と関わりのある商店や企業も含む)であり、保育園で言えば保育園の仏教保育運営スタイルであるわけです。 さて、僕のビジネススタイルの「成功の定義とは何か?」からお話しします。一般的な成功の定義とは、一言で言って「お金」と「ステイタス」です。僕の場合ははっきりしています。「仕事を通じてよりよく自己成長でき、感謝と価値のある人生を刻むこと」です。お金やステイタスはその結果として与えられていくものと、とらえています。 そして、その「感謝と価値とは?」です。それは、「自分ができることを精一杯やって、誰かの役に立ち喜んでもらうこと」です。これは自己犠牲的じゃなくね。これもはっきりしています。 じゃあどうやってその「感謝と価値を生むの?」ですが、 その@は、「自分の“いのち”が満足と喜びを生むことをやる」です。つまり「自分ができることを精一杯やって、そのことで、それが誰かの役に立つと喜びを生む」ということです。それは決して利己的な、相手がどう傷つこうとも自分のところにお金がたくさん入ればいいというようなモラルハザードでは当然ありません。(明日に続く) ☆僕の考えるビジネスの成功の定義とは「仕事を通じてよりよく自己成長でき、感謝と価値のある人生を刻むこと」その「感謝と価値」とは、「自分ができることを精一杯やって、誰かの役に立ち喜んでもらうこと」である。 ●今日は半日人間ドッグを受けました。ほぼ毎日早寝早起き、飲酒もまあまあで、肝機能は28と、すこぶる良好。ただし中性脂肪の数値が200ということで、「もう少し運動されたらいいでねえ〜」とちょっぴり運動不足を指摘されました。後はぜ〜んぶ正常で、肉体年齢は40歳と実年齢より10歳若いそうで、無理なく適度な運動をして汗をかいたらすぐに30代に戻るとのことでした。ふ〜う、昔やってきた空手道のお陰と本当に感謝ですね。久々に今日は広島へ帰って、保育園の職員研修です。今回はこの「すなお」に基づいて、「保育園の運営スタイル。仏教保育サービス」についてお話ししようと思っています。また日曜日は「親鸞さんの誕生会のご法話会」で、法話もしますが、赤ちゃんの初参式もあります。 久々のお寺もいいよね。しっかりとお法(みのり)シャワーを味わうことが楽しみですよ。 |
「考え方のフィルムを変える」 (2007.5.24[Thu]) |
潜在意識はいつも自分が考えている通りのことを引き寄せてきます。「なんとなく不安だ」と考えていれば、その不安な考え方のフィルムが現実となって目の前に映し出されます。 簡単に言えばこの世は心と考えと行動だけ。あなたの“いのち”という光がこの考え方のフィルムをとおって、現実となって映し出されているということです。だから自分に起こることは100l自分の責任なのです。 でも、考えや思いは急には変わりません。それだったら、まず言葉を変える。「ありがたい」「うれしい」「楽しい」「感謝してます」「幸せです」「ありがとう」「ごめんなさい」「大丈夫」 「うまくいってる」「面白い」「頑張ってるね」などの調和言葉。調和言葉を遣っていると、自然に心が変わっていきます。 だけど、突き詰めて言うと、あなたの考え方が問題なんです。 うまくいってる人とうまくいってない人を、よく観察してみて下さい。考え方が違いますから。 考え方というフィルムを替えないで行動だけを変えても、うまくはいきません、不幸のフィルムからは、不幸な事象しか起こらない。幸せなフィルムからは、幸せな事象しか起こらない。この法則を何度も何度もこの世で体験しているのですが、人はなかなかこの真実に気づけません。 まず言葉を変える。それが考え方を変える初級です。その次は人に喜ばれる行動をする。 例えば「ありがとう」は感謝の言葉です。そのことはいいことです。ただ「ありがとう」「ありがとう」と感謝の言葉ばかりでは、その人はいつも与えられてばかりいるということです。あなたが人から「ありがとう」を言われる人になる行動をする必要があります。 まず「ありがとう」「感謝しています」という言葉が言えるようになったら、それがまず初級。それでやっと“いのち”を成長させるスタートラインについたと思ってもらいたい。 次にやるのが、他人から「ありがとう」「感謝しています」と言われるようになるだろうか。「あなたが生まれてきてくれてよかった」とか、「あなたがいてよかった」とか、「このお店があってよかった」とか、「この会社があってよかった」とか、どうすればそんなふうに言われるようになるのかを考えて行動する。 人間の究極の目的は、人から喜ばれる存在になること、「ありがとう」「感謝しています」と広く多くの人達から言われる存在や会社や商店になることなのです。 ☆感謝ができてやっとスタートライン。次にやるのは感謝される人や会社になるための行動を起こすことです。 |
「この世とあの世の差は行動するか、しないか」 (2007.5.23[Wed]) |
「生き甲斐の創造」(退行催眠療法を受けたクライアントの証言分析論文)シリーズを書いた飯田さんの本を読んでいて、「なるほどなあ〜」と納得できることが沢山ありました。まあ、それは法則に適ったことばかりなんですけどね。 その本の分析でも、宗教的に考えても、あの世とは想念の世界ですね。だから、想念だけで何でも適います。 だけど、この世は想念だけの世界ではありません。 たとえば、あなたが奇麗になりたいと思います。それで「きれいになりたい」としっかり思う。あの世では奇麗になるかもしれませんが、この世ではなれません。実際にお化粧をしたり、ダイエットをしたり、服装に気を配ったりしないと、奇麗にはなれません。 ということは、この世は思うだけではなく、行動しなければならないルールがあるんです。 例えば僕が、「めちゃくちゃ運が強い」とか、「すべて与えられてありがたい」とか、「目の前に起こる事は全部、自分の潜在意識が起こしていることで必要必然ベストなんだ。一切の無駄がない。なんて恵まれてるんだろう」とか、いつも楽しく前向きな考えをしています。そうすると、実際にツイてる現象が起きるチャンスがやってきます。 そしてそのチャンスが来たときには、ちゃんと自分で行動を起こす。そうすれば夢は必ず適っていきます。 だからこの世というところでは、考え方というフィルムを前向きで明るいものに替えなければなんともなりません。潜在意識がそのチャンスすら起こしてくれません。もし前向きで明るいものに変えたら、潜在意識はチャンスを引っ張ってきます。それに対して「よし、きた」と感じて行動する。 それしかありません。思ってばかりいても駄目なのです。思って、チャンスが来たらすぐに行動する。チャンスがくるまで、せっせと準備をしておく。 この世というのは、あなたの光照らし出される考え方なんです。光が考え方を通って、現実というスクリーンに映し出されます。だから、否定的な人には否定的なことしか起きない。否定的な出来事が出てくるようになっているんです。 考え方というフィルムが否定的ならば、あなたには失敗する出来事が山ほど出てきます。否定的な考え方だから、物事がうまくいかなかったり、失敗したりするのです。 考え方というフィルムが肯定的であり、自分が夢を描いたものであれば、現実というスクリーンにはそのまま映し出されます。つまり、夢がかなって、どんどんうまく流れていくようになるんです。 今、目の前に起こっていることは、自分に焼き付いてる「考え」というフィルムが、映っているのです。いいですか。あなたの“いのち”は仏と同質なものをもった美しいものです。問題はあなたの考え方なのです。あなたの考え方というこのフィルムを、どれだけ、明るく、楽しく、爽やかに替えられるか。考え方を明るく前向きに気配り好きに替えると、現実がおもしろいように変わっていきます。 ☆この世は考え方と行動が現実化されていきます。 |
「お寺や神社でお願い事をしてはいけない」 (2007.5.22[Tue]) |
お寺や神社に行ったらお願い事をしてはいけません。 もう、皆さんはいい加減に潜在意識のシステムをご理解頂けてると思います。 これだけは覚えておいて下さいね。お願い事をすると、お願い事をしたい事を引き寄せる。 「カッコイイ彼氏ができますように」とお願い事をすると、「カッコイイ彼氏ができますように」と思える出来事や事象をどんどんあなたの潜在意識は起こしていきます。 あなたを嫌っているからではありません。あなたを大好きだからこそ、あなたの言葉と思いを現実化させようと働いてくれるのです。その結果が、「カッコイイ彼氏が欲しい」と思える現実です。 だからお寺や神社に行ったら、どんなお願い事をしても意味がありません。それよりも「ここまで無事に生きてこられました。すべては神様仏様のお陰様です。ありがとうございます」つまり、感謝を忘れないことです。 感謝を口に出して言うと、もう一回、感謝をしたくなるようないいことが必ず起きてきます。いや潜在意識が「そうか、この人は感謝が好きな人なんだ。しゃあ感謝の出来事を起こそう」と働きだすからです。 感謝をすると、もう一回、感謝をしたくなるような出来事が起こる、そうすると、また感謝をする。 だから感謝している人は、ずっ〜といいことが起こるようになっているのです。というか、潜在意識が感謝の出来事を引き寄せてくるのです。感謝の出来事が好きな人だと働いていきますから。 ところが、「ああしてほしい」「こうしてほしい」と言っている人。愚痴や泣き言、不平不満や妬みや嫌みを言う人は、愚痴や泣き言、不平不満や妬みや嫌みを言いたくなるような現象を潜在意識が起こしてくれます。その人が愚痴や泣き言、不平不満や妬みや嫌みが好きな人だと働きづめに働いてくれるからです。 だから、幸せな人は幸せだし、不幸な人はエンドレスで不幸なのです。もう嫌なことが次から次へと起こる。いや、潜在意識が起こしていく。 そういうのを、「魔寄せ」と昔から言いました。魔を寄せ付ける人。あなたの周囲にも、魔寄せみたいな人がいるかもしれない。愚痴とか泣き言とか、願い事とか、出来ない理由を一杯言ってる人、そんなことばかり言ってる人。感謝のない人です。 感謝のない人は、すぐに方角とか良い日だとか悪い日だとか気にします。だけどどちらにしても、どこの方角に行こうが、どんな日であろうが不幸が待っています。あなたの考え方や言葉や行動を変えない限り、潜在意識はエンドレステープのように繰り返し繰り返し、あなたの嫌なことを引き寄せます。 このことだけは、はっきり自覚しておきましょう。 ☆お寺や神社はお願い事をする場所ではなく、感謝をする場所。日々の生活もそう。 |
「“嫌なことはするな”より“してほしいことをしよう”がサービス」 (2007.5.21[Mon]) |
儒教的に言うサービスとは「お客さんの嫌がることはしない。やってはいけない」です キリスト教的なサービスは、「お客さんが喜ぶことや相手がして欲しいこと、自分がしてほしいことを相手にしてあげよう」です。 自分もこんなことをしてほしいから、それをお客さんにしてあげるという考え方です。それにはリスクが伴います。 ひょっとしたら、自分と違う感性の違う人かもしれないし、こんなことはしてほしくないとかで、嫌われるかもしれない。でも、そのリスクを背負いながらやっていくのがサービスです。 サービスするというのは、もともと神様に仕えるという意味があります。 人のイヤがることをやってはいけないとか、人に対してイヤがられるぐらいだったら、やらないほうがいいというスタンスになってしまうと、何もできません。 気をきかせるということは、つまりリスクを背負うということです。リスクなしで気をきかせるということは不可能ですね。リスクを伴いながらも、お客さんに喜んでもらいたい、相手に喜んでもらいたいという気持ちが大切です。 そういった気がきく人になりたいと思う人は、気がきく人と一緒にいると、自然と気がきくようになります。気がきくことは伝染するからです。 ああ、なるほど、こういうことをやってもらったらうれしいから、自分も今度は誰かにやってあげようと思うのです。 そばにいる人が気がきかなくて、いつも何かムッとしていると、自分もムットさせられてしまいます。これでせは気をきかせることの快感がわからない。 もしあなたの先輩がお客さんに気をきかせている現場を見るチャンスがないと、気をきかせるには具体的にどうすればいいのかがわかりません。すると、後輩は気をきかせることができなくなります。いくら「気をきかせろ」と言っても、どうすればいいのかわからないのです。 あなたの周りがもし気がきかない人の集まりだったら、責任の半分はあなたにもあります。気をきかせる集団と気をきかせることのできない集団の二通りに別れていくから、どんどん差がついていきます。 お店の単位でいえば、気がきくお店はどんどなはやります。従業員全体がレベルアップして、ますます気がきくようになっていくからです。会社でいえば、どんどん業績が伸びていきます。会社の中で一人だけが気がきくということはあり得ません。気がきく人のそばにいると、隣の人もどんどん気がきくようになっていくのです。 ☆気がきく人に一緒にいると、気がきくようになっていく。 |
「サービスは相手やお客様によって育てられるもの」 (2007.5.20[Sun]) |
ナチュラルクリーンはどんどんお客さんのレベルの層が上がっていっています。 そのお陰で、自然とレベルの高いサービスを要求されていきます。 サービスはお客様によって育てられものです。 お店や会社のサービスがどれだけレベルアップしていくかは、結局、お客さんがどれだけアップしていくかによります。 これはニワトリとタマゴのような問題で、どちらがどうのということじゃない。 お店がお客さんのレベルを上げ、お客さんがお店のサービスのレベルを上げていくんです。 お客さんが商品を注文したとしますよね。お客さんは、注文通りのモノが来ても喜ばない。「商品」プラス「気」がないとダメです。「気」とは「気がきく」の「気」です。それがサービスです。 例えばうちでは月に一度「月刊ニューズレター」を出しています。これはお客さんにうちの会社が今取り組んでいることやトピックス、中で働く人たちのキャラクターや僕が今感じていることなど、お客さんと僕たちとの絆づくりのために定期的に出している情報誌であり、サービスです。 僕はサービスとは絶対数であり、頻度であり、回数だと思っています。決して花火や、どれだけの効果があるのかと考え始めた時点で、サービスをすることをやめてしまいます。それは期待以上のことをやっているのに、気づいてくれないお客さんが多いからです。 最初のうちは、サービスの効率曲線は上がりません。ただサービスをやればやるほど、コツコツと続ければ続けるほど、ある段階から急に効率は上がってきます。 ☆ サービスとは継続と,「何」だけではなく、「何」プラス「気」が込められているかどうかなのです。 |
「分かち合い、助け合うのがうちの社風」 (2007.5.19[Sat]) |
先月号は「嫌な人にも感謝する」をお伝えしました。 他社からうちの「水洗い」を批評批判されても、うちのスタッフは心が広いというか、仏さんの心が浸透してるんでしょうか、雑談の中で「こうい人は逆に長所も一杯持ってんだから、愛の心に目覚めると、素晴らしい人や会社になっていくんだろうけどねえ〜」って、“ほのぼの”とした雰囲気で話してました。 オオッ・・・!さすがです。 さて、誰かの成功や幸せを妬んで悪口を言うことの愚かさを、今月号では皆さんと一緒に考えてみたいと思います。 まず知っておいてもらいたいのは、誰かが幸せになったからといって、あなたの幸せの分量が減ることなんてまったくないってことです。 それどころか、他人の幸せや成功に嫉妬したり妬んだりするとき、「あの人には幸せや成功を与えられたけど、自分には与えられてない」という事実を自分で認めてるわけです。 自分の心の潜在意識くんは素直にそう理解して、自身の心の無意識の中に暗示として刻印されます。だって、自分にも幸せや成功が与えられるばずだとわかっていたら、まず嫉妬したり、妬んだりはしませんもん。 成功してる人や幸せな人を見て「あの人は運がいいだけだ」とか「調子の乗ってるけど、そのうち失敗するよ」とか、そんなふうに嫉妬や自分のやっていることを正当化する人は、絶対に成功も幸せもやってきません。 もし一時的に成功や幸せを手に入れていたとしても、それはエゴの強力なパワーで力づくでもぎ取ったものですから、やがて法則通りリバウンドがきます、ゴムのひねりまくりが一瞬にしてピュイ〜ン、ブルルルルと元に戻るようなもんです。 成功する人や幸せな人は、他人の成功を見たら、「あの人は、どうやって運があるんだろうか?」「あの人のように大きな波に乗るのにはどうしたらいいんだろう?」「あの人はどうやったら幸せになったんだろうか?」といったことを謙虚に学ぼう、貪欲に吸収しようとします。 よく僕はうちのスタッフに「敵は外にあるんじゃない。心の内側のエゴにあるんや」と言います。他の会社の失敗や成功なんてどうだっていいことなんです。大切なのは自分のエゴにいかに振り回されず、周りの仲間や協力者たちと分かち合い、助け合いなんがら喜んで仕事ができるかなんです。 さらにスタッフたちはこうも話していました。「同じ水洗いを目指してるんだったら、つまらないしがらみを捨てて、協力し合ったらお互いにもっと凄いものができるのにねえ〜」って。 競争力で相手を打ち負かそうと頑張って努力よりも、良い技術があればそれを分かち合い、協力し合うことによって、その効果や結果や喜びは何十倍もの「幸せ」となって生み出される。そんなことを、うちのスタッフたちは無意識に知ってくれてるんだ・・・。 そんな社風がいつの間にかうちの会社に育ってくれていたことが、僕はとても嬉しかった。みんなの心の潜在意識くんは、必然的に「相手にも幸せが与えられ、自分にも幸せが与えられるばずだ」と素直に働き、自分にも会社にも幸せを呼び込んでくれているような気がします。 ☆分かち合い助け合うことによって、より大きな調和されたエネルギーが生まれます。 |
「気がきく人になろう」 (2007.5.18[Fri]) |
さて、あなたの潜在意識に習慣化させてもらいたいものがあります。 それは「気配り」「気がきく」です。 気がきく人は、人の痛みが分かる人です。 あなたは今まで心の痛みを感じたことがありますよね。人に何かを言われて傷ついたり、思わぬ状況が起こってきたり、伝えたと思っていても全く相手に伝わっていなかったり・・。 自分で痛みを感じない人は、相手の痛みも感じません。 相手の痛みが感じられ人は、相手に痛みを与えてはいけないと思うから、そこで気を使っていくようになります。 新人は、まだ何をやってもオドオドします。ただ何でも一生懸命だから、相手には好感を持たれたりします。ただ慣れてきた人は、痛みに対して鈍感になってきます。そして逆に新人より気のきかない人になってしまいます。こういう人は家庭でも気がききません。 仕事上で気がきく人は、日常や家庭でも気がきく人です。相手の痛みが分かる人と言っていいです。 仕事上では気がきくのに、家庭に帰ると、まるっきり気を抜いて気がきかない人もいます。こういう人は、普段気配りしているのではなく、気を使っているのです。 気配りとは、相手の痛みや喜びを感じ取ってやってる自発的行為ですが、気を使うは、自分の気持ちを押し殺しながら、相手に応じた対応を頑張っているだけであって、こういった場合本当の喜びはありません。 だから仕事中は気がきくけど、プライベートは気がきかないという人は、実際は気がきかない人なのです。言い換えるならば、仕事中は人前で気を使ってるけど、プライベートになれば身近な人ばかりだから気を使わなくていいとなってしまうわけです。こういう人は、はなから気がきかないのです。 これからのサービスは「商品(保育)」プラス「気がきく」で差がついてきます。どれだけ気がきいているかということでどんどん差がつきます。 仕事で気をきかせるためには、日常生活でどれだけ気をきかせることができるかが大事です。仕事以外の時間に気をきかせる習慣のある人は、仕事の中でも「気が利く人」になれます。この気がきく習慣を潜在意識に意識して身につけて欲しいのです。 自分が気をきかせることによって、相手に喜ばれてうれしかった。あるいは逆に、「ここで気をきかせればよかったのに気がつかなかった、ヤバい」と思って冷や汗が出た経験があると思います。 誰かに気をきかせてもらってうれしかったり、自分の気配りが足りないせいで誰かを傷つけたり・・。そういう痛みがすべて仕事や家庭に気配りとして反映されていくのです。 ☆サービスは気をきかせることで差がつく。 |
「潜在意識を萎縮してしまう最大の原因」 (2007.5.17[Thu]) |
よく自己評価が育ってない子どもたちの親を見ていて思うことは、父親の言うことと母親の言うことが矛盾しているということです。矛盾していると、その子は、大人の顔色を必要以上に窺う子どもに育ってしまいます。 例えばお父さんは 「寒いからって家にこもってたんじゃあいけない。子どもは外で遊びないさい!」と言う。でも、外に出ようとすると、お母さんが「あら、どこへ行くの?風邪ひくから、部屋で宿題をやりなさい!」と言う。 家にいるとお父さんに怒られる。外に出るとお母さんに怒られる。子どもとしては、どうしていいか困ってしまう。 これがたまならいいけど、同じようなことが毎度続くと、子どもとしては「この場合は、どっちの言い分に従った方がいいんだろう?」と裏読みする癖がついてくる。ヘンに大人の顔色を窺う子どもになってしまう。 そうなると、大人になっても、必要以上に他人に気を使い過ぎる性格になってしまうのです。 同じことが、あなたとあなたの潜在意識の関係にも言えます。 あなたが親で、あなたの潜在意識が子どもです。あなたが潜在意識に与える暗示が矛盾すると、潜在意識はどうしていいのかわからないのです。萎縮してしまうわけです。 「ああこうしたい」「こうなりたい」と思いながら、その思いとは行動が違う。そうすると潜在意識はわけがわからなくなって、萎縮してしまいます。 言うことと、やる事が違うってことが一番よくないのです。 なりたい自分にふさわしい行動をしていきましょう。 ☆なりたい自分にふさわしい行動をすること。 |
「自分が自分へ常に暗示をかけている」 (2007.5.16[Wed]) |
暗示というと、何か催眠術みたいなことを思い浮かべますが、そうじゃあありません。あなたの心の中にある潜在意識が理解できるのは、暗示なのです。 また暗示というと、「言葉」のことだと思う人も多いですが、すべてが暗示なんです。むしろ、言葉による暗示というのは、それほど効果はありません。 ちょっと実験してみましょう。 「嬉しい、嬉しい、物凄く嬉しい・・・」という言葉を繰り返してつぶやいてみたらよく分かります。どうです?まあ、少しは嬉しい気持ちが湧いてくるかもしれないけど、まあまあかな。言葉の暗示に気持ちが少し反応したかもしれない。 さて、今度は、言葉ではなく、意味もなくただニコッと笑ってみましょう。思い切り歯を見せて、遠慮なくニコッと笑う。 どうかな?嬉しい気分がパッと広がったかも。 こちらの方が、言葉で暗示を与えた時よりも、より効果的です。表情筋をちょこっと動かしただけでこうなんだから、あなたの日々「行動」が、どれだけあなたの潜在意識に強力な「暗示」を与えているか分かるでしょ。 行動による暗示は、言葉による暗示より何十倍もパワフルなんです。 行動こそが、より強力な「暗示」である。このことはよ〜く覚えておいてください。潜在意識は、あなたが日々どう行動するかを逐一観察して、それに応じてあなたの人生を形成していきます。 つまりこういうことなんです。 「私はこういう自分でありたい」また「私はこういう自分になりたい」ということを潜在意識に効果的に伝えるためには、あなたの日々のプラスの行動を使って伝える。日々の行動をウソでもいいから、「なりたい自分らしい」ものにすればいいんです。 例えばあなは「おおらかな自分になりたい」という願望があったとします。あるとき、とても腹が立つことがありました。普通だったら「なにっ!」と腹が立つのですが、そこでグッと耐えて、考えるのです。 「昨日までの私だったら、ここでプイッと席を立って黙って出ていってしまうだろうな。でも、それは“大らかな人”のする行動じゃない。“大らかな人”はこんなときにどんな行動を取るだろう?そうだ大きな深呼吸をして、感情的にならずに、なぜ相手がそうなのかを落ち着いて聞いてあげたらいいんだ」 そこで、あなたは感情を荒立てずに、冷静に相手に対して問いただします。まあ、その相手への回答がどうであれ、ここで大切なのは、あなたはこの「大らかな」行動によって、「自分は寛容な人でありたい」ということを自分の潜在意識に伝えることができるってことなのです。 ☆あなたの行動が潜在意識へののっぴきならない暗示になっています。成りたい自分に成り切って行動を変えていきましょう。 |
「もっと潜在意識を味方につけるために行動する」 (2007.5.15[Tue]) |
「虫の知らせを感じて、家に電話したら家族が病院に運ばれた」とか、「なんとなくいつもの経路を変えて帰ったら、事故を免れた」とか、そんな話をたまに聞くと思いますが、僕にもそんなことは一杯あります。 これは偶然めいた必然です。潜在意識はすべてと繋がっていますから、自分の潜在意識が起こることや起こっていることをキャッチしてくれているのです。 潜在意識という世界には時間も空間もありません。だから、潜在意識は、時間も空間も超えてあなたに必要なものを知っていて、そこに導く力を持っています。 例えば、うちの会社に必要な新しい技術を持っている人は、今、オーストラリアにいて、来年ぐらいに出会えば、お互いにとって準備もできてベストだと、潜在意識が「知っていた」としましょう。潜在意識はだから僕たちをオーストラリアに導こうとします。 しかし、時空を超えてすべてを知っている潜在意識にも、欠点があります。それは、「潜在意識には手足がない」ということなんです。当たり前じゃん。 潜在意識は、たとえば、次のようにオーストラリアに導こうとします。仕事から疲れて帰って僕がぼんやりとテレビを見ていると、楽しい光景が流れてきました。これはどこだろう?身を乗り出して、ナレーションに耳を傾けます。どうやらオーストラリアのようです。何の馴染みのない国です。しかし、僕はなんとなくそこに行ってみたくなりました。 オーストラリアに行ってみたい。何かそういう気持ちが沸々と湧き上がってきました。と、そこまでが潜在意識の役割です。潜在意識が僕に与えてくれるものはここまでです。 計画を立て、お金を出し、スケジュールを調整して、ホテルの予約をしてチケットを買い、空港まで足を運び、飛行機に乗り、オーストラリアの地に自分の足で降り立つことは、手足のない潜在意識にはできないです。僕の肉体と意識にそれは委ねられる。潜在意識は僕を正しい方向に促すことしかできません。「オーストラリアに行く」と決めるまでに必要なものは引き寄せてくれる。ただ、そこからは僕に委ねられ、僕が行動していくわけです。 もし僕が「オーストラリアには行きたいけど、仕事も休めないし、やっぱり無理」と「できないこと」を考えるばかりで、何も行動しなかったらどうでしょうか?僕をかついでオーストラリアには行けません。 だからどんなありがたい話を聞いたり、本を読んでも、お香を炊いたり、念仏を唱えたり、瞑想したり、研修を受けても、その人自身が具体的な行動を取らなければ何も実現しないし、何も変化しない。 感じたら即行動する。これをとにかく繰り返すんです。すると潜在意識の牽引の法則は益々加速してあなたを幸せに導いてくれます。ハッと気づいても、止まっていたら駄目なんですよ。 ☆潜在意識を味方につけるためにはグタグタ言うのはいいから、感じたら即行動すること。 |
「あなたの潜在意識はすべて見ている」 (2007.5.14[Mon]) |
人間の心には知性や理性の働く表面的な顕在意識と、癖や感情など無意識に行ってしまう潜在意識というものがあります。 善因善果悪因悪果とは仏教の因果応報のことを言っているのですが、あなたの人生が嫌なこと続きだったら、ちょっと自分を振り返って欲しい。 たとえば、誰も見ていないことを確認して、あなたが道端にゴミをポイ捨てしたとしましょう。もちろん、あなたの潜在意識は見ています。そしてこう考えます。 「なるほど、私という人間は、人が見ていないと悪いことでもしちゃう人間だっんだな。それじゃあ、そういう卑しい人間にふさわしいものをもたらせばいいんだ。まずは、同じようなズルい手口で誰かにお金をだまし取られるというのはどうだろうか?それが卑しい私には一番ふさわしい」 そして、潜在意識は、それを実現させる出来事にあなたを促します。かくしてあなたはたまたま目の前に現れた悪徳業者の勧誘に引き寄せられていくのです。 実は小さい時に、あなたは母親にこんなことを言われたことがありませんか?「お母さんにウソをついても、仏様はきちんと見ておられるよ」って。 それを仏様と呼ぼうが、先祖と呼ぼうが、神様と呼ぼうが、宇宙と呼ぼうが、潜在意識と呼ぼうが、どうだっていいんですが、すべて同じことです。あなたの潜在意識というのは、 だから、あなたの人生に嫌なことばかりが続いていたとしたら、ちょっと立ち止まって考えてみる必要があります。「嫌なことばかり起こるにふさわしい自分」を潜在意識に暗示するような思いや行動を取ってはこなかったか? ズルいことをしたら、ズルい自分にふさわしいズルいことが起こります。何かを恐れ怯えていれば、怯える自分にふさわしい怖い事が起こります。人に親切にすれば、親切な自分にふさわしい温かいことが起こります。例をあげればきりがありません。 潜在意識には悪気はないんです。あなたに意地悪しようなんて気はまったくない。むしろ、あなたを愛し、あなたの望みを叶えようと頑張っているだけなのです。ただ、あなたが、思いや行動という暗示を通して、自分を不幸にさせるような命令を潜在意識に出しているだけなのです。 ここでしっかりとあなたには覚えておいて欲しい。それは「あなた自身の思いや行動があなた自身の潜在意識への、のっぴきならない暗示となっている」ということなのです。善因善果悪因悪果とは、決して善い行動とか悪い行動とかを言っているわけではありません。あなた自身があなたの潜在意識に対して、あなたの思いや行動を通してどういった暗示を与えているかということなのです。これをやはりチェックしてみる必要があります。 ☆潜在意識が理解できるのはあなたの思いと行動の「暗示」だけです。 |
「宇宙貯金は潜在意識に溜まっていく」 (2007.5.13[Sun]) |
人の意識は理性や知性や五感を司る顕在意識と、本能や感情や習慣を司る潜在意識があります。 で、この潜在意識なるものはすべての人間の心とつながっていて、他人に対する感情や行いは、良くも悪くもブーメランのように自分のもとへ跳ね返ってくる仕組みになっています。 「人を呪わば穴二つ」なんて、まさにそういうことを言ってるわけです。 ですから、あなたが人に対して「妬む」「怒る」「恨む」「批判する」「悪口を言う」「悪態をつく」ような思いや行動を取ったとしたら、必ず「妬む」「怒る」「恨む」「批判する」「悪口を言う」「悪態をつく」に見合った事が、その人ではなくてもどこからか倍返しで返ってくるということなのです。 「逆は真なり」です。この作用はプラスにも働くし、マイナスにも働きます。 他人の幸せを願い、人に喜びを与えたり、尽くしたりすれば、めぐりめぐって、いつか恩恵になって自分のもとへ返ってくるようにもなります。 つまり、宇宙銀行は、この潜在意識の中にあるのです。 じゃあ、実際に宇宙銀行へ徳を積むためにはどうしたらいいのかと言うと、要は、相手の立場に立って物事を考え、「こうするとみんなが喜ぶんじゃないか」「こうしてあげると、あの人は助かるんじゃないか」と思えることを、できる範囲、可能な範囲で行えばいいんです。 このことを意識している人と、無意識にいる人では、その後の人生展開がまったく違ってくると言っても過言じゃないです。 この好例ですが、観光地の名所の側にA店とB店という二つのお店がありました。両店は人からよく道を訪ねられるという共通点がありました。 ところが、道を教えても、ろくにお礼を言わないで行ってしまう人が多いことに腹を立てたA店の主人は、「お礼をいってくれないのなら、一回教えるごとに100円取ろう」と考え、それを告知する張り紙を出しました。 すると、その途端に、そのお店はお客さんまでもが寄り付かなくなってしまい、間もなくして潰れてしまいました。 これとは対照的なのがB店の主人です。B店の主人は、店外に周辺の地図を貼り、それでも分からない人に対しては“周辺の地図を貼っておきますが、それでもよくわからない方は、遠慮なくお尋ねください」という張り紙を貼っておきました。 すると、その直後から、道を尋ねる人ばかりでなく、お客さんも沢山来るようになって、以前にも増して繁盛するようになりました。 そういうことなんです。 ☆徳の貯金をすれば、幸運が引き出されていく。 |
「運の善し悪しを決めるもの」 (2007.5.12[Sat]) |
以前、女子高校生の間で大流行した「ヘブンス・パスポート」というグッズがあります。パスポートサイズの手帳に、彼女たちが良いことをしたと思う度に、一枚ずつシールを貼っていき、100枚になると自分に幸運が訪れ、願いごとが適うというもので、10万部を超えるベストセラーになりました。 例えば、「電車の中でお年寄りに席を譲ってあげた」「道路に落ちてるゴミを拾った」「おはようと自分から挨拶をした」「財布を落とした人に教えてあげた」等々、良いことをしたと思ったらパスポートにシールを一枚貼っていくわけです。まあ、我欲的な願望実現が目的だとしても、現に人の役に立っているのだから、立派な社会貢献と言っていいです。 で、このシールを貼り続けた彼女たちは願望実現できたのか・・・?実は、見事、願い事を適えた人が沢山いたそうです。 宇宙の法則的に言うと、これは「宇宙貯金」をしてるってことです。つまりお金じゃなく、徳を積み立て、満期になると積み立てた徳の量だけ、幸運が引き寄せられるわけですから、この「ヘブンス・パスポート」なるものは理に適っているわけです。 ところで僕は、人からよく言われることがあります。 それは「代表は、めちゃくちゃ運がいいすよねえ〜。うらやましい」です。 で、思うというか、思いつくことは一つしかありません。 結構、人に喜びを与えたり、人に尽くしたり、仕事でも社会のために役立つ思いでやってるような気がするので、それが徳の積み立て利息となってきっと返ってきてるのだろう、です。 日々皆さんが読んでるこの「すなお」だってそうです。少しでも皆さんが何かに気づき、目覚めればいいと思って日々こうやって書いてるわけです。結構僕も知らないいろんな人が読んでくれているらしくて、時々感想メールなんて頂いて、「微力ながら人に喜びを与えているんだ」と嬉しく思います。 もし、僕が日々そんなことをしていなくて、どんなにプラスに考え、プラスに行動し、プラス思考を意識して頑張ったとしても、運はそれほどは良くならなかったと思います。 運の善し悪し・成功の秘訣というものがあるとするならば、日々楽しく“徳を積む”以外にないのではないかと思えます。 どうも「運が良くならない」「願望がかなわない」という人は、快楽や自分の願望のみを満たすことを優先し、他人に尽くすことをさて置いて、「自分さえ良ければいい」「自分だけ儲かればいい」「これはビジネスだから表面的な付き合いでいい」という考えが多いもんです。しかもそういう人は他人の幸せまで奪おうとするところがあるので、結局は周りのサポートを得れず自滅していきます。まあ、ホリエモンなんか典型的な例ですね。 本当の成功者はそうじゃない。人のために役立つとか、人に尽くすこととか、社会貢献するということを肝に銘じて仕事をしてる。やはり「この仕事を通して、世のため人のために少しでも貢献しよう」という姿勢や思いがそこには絶対にあるもんです。 その結果、宇宙貯金に積み立てられた目に見えない貯金がどんどん増えていってるわけで、結果的に「運命好転」「願望実現」「成功」「飛躍・発展」という結果が、宇宙貯金の利息として天から降りてきてるわけです。これは体験上、間違いないって思いますよ。というか、僕はそれしかないですね。 ◎幸運は日々の「徳の量(人に喜びを与えたり、人に尽くす)」でハッキリ決まる。 |
「すべての出来事は、自己成長のために自分自身が引き起こした必然」 (2007.5.11[Fri]) |
その昔、飯田さんの「生き甲斐の創造」(世界中の催眠療法での証言をまとめられた学術的な本)シリーズを読んで、世の中で起きる出来事は「自分の成長のために必要だから起こっていて、とにかく必要のタイミングに必然なことしか起こらないようになっている」という事実は、何千人のクライアントの緒言によって、疑う余地はないと自覚させられたことを最近よく思い出します。 事件に遭い、健康を害され、ダメージを与えられて、収入もなくなって、今後の生活も不安って言ってたら、普通は被害者の立場になってしまいますよね。 でも、何千人の証言では、その人の心の本質がそのような筋書を全部書いていて、「わたしは、物凄い勢いでいろんなことに気づきたい。そのために、普通だったら3年かけて少しずつ学ぶものを三カ月でマスターしてしまいたい」という強い思いがあるわけで、最初はつらいかもしれないけど、すべてわかった上で選んできているので、最終的には自分で乗り越えていけるようになっているのです。 ですから、その人には「乗り越えられないような出来事は起こらない」のです。すべて自分の本質が自己成長のために、厳しい筋書きを書いてきているからです。だから乗り越えられないような、とっぴょうしもない出来事は起こらないようになってるんです。 だから目の前に「ええっ!?」という出来事が起こってきても、「これは、何かの理由があって起きてきていて、私の“いのち”が一気に成長するためには、きっとすごいイベントなんだ」って思えたとき、答えはすぐに出さなくても、そのうちその意味が必ず分かるようになります。 なぜならば、大きな宇宙の意志とつながっている自分の中の心の本質は、物凄い勢いで、僕たち一人ひとりを愛し、尽くしてくれているからです。 一日も早く、心が自由になって楽しめるように、病気をさせてくれたり、財産を失わせてくれたり、事故に遭わせくれたり、手を変え品を変え、いろんな出来事を起こしてくれるわけで、「そのすべての出来事が自分の成長のために自分自身が引き起こした必然だった」というこが、いずれわかるようになっていきます。こういうことを学んでいればね。 だから、こういう“大変な目”に遭ったときは、受け身的な考え方ではなく、「しっかり気づこう」と能動的に思ってみるのです。 あれがあったからこそ、こういう人に出会えた。あれがあったからこそ、こういうことに感動できる自分に出会えたって・・・。 今まで、まっすぐ歩いている時には、この目の高さしか見えなかったけれど、転んだときには、転んだときにしか見えないものが感じられます。そしてその時にしか気づけないことを感じていけます。そのことによって人の心は広がっていくものなんです。とにかく宇宙は絶対にあなたを潰しません。何故なら、すべてはあなたの本質が自身の成長のために起こしているからです。 ◎とにかくすべての出来事は、自分の成長のために自分の本質が引き起こしている。 |
「その人その人に人生のテーマがある」 (2007.5.10[Thu]) |
その人その人に人生のテーマがあって、中には今回の人生では「野良犬にも優しく、動物を可愛がろう」って書いてきている人もいるでしょうし、「野の花を愛でよう」って書いてきている人もあれば、あるいは「一生の間、誰かに心を込めて接してみよう」とか多種多様なバージョンがあるわけです。 例えば僕だったら「人を生かし(気づきや目覚めや成長に楽しく導く)、人を許し(すべての人に価値があると認め感謝する)、人を愛して(相手の“いのち”を思いやる人権感覚を持つ)、大調和(人の良い面が自然と出てくるような気持ちのいい場を創造していく)をどんどんうんでいく」と分かって、方向性がハッキリ決まったら、そのテーマを意識して淡々ときちんとこなしていくことが、自分の人生が以前と違ってとても楽しくなるって感じています。 大きたことではなくても、自分の人生のテーマに気づくことって、人生を楽しむためには凄く大切なことだと僕は実感しています。 僕の心の本質は「人生は楽しむためにある。ワクワクしながら自己成長ゲームをするためにある」って言ってくれました。 人生は苦しむものとか、犠牲を払うものとか、あるいは何か精進するものとか、頑張るものといった考えや行動は、どうやら20世紀までで終わったらしいのです。つまり男性性の時代で、この時代の通用したのは「権力」「保身」「自己主張」「強引さ」「叱咤激励」などの地の理法です。人間のしがらみとか、しきたりとか、道徳的な正しさの価値観の押し付けや、何かにつけて力の時代でした。 ただ21世紀に入って時代の流れは大きく変わりつつあります。それは男性性の時代から女性性の時代へ移行しています。それは「共生」「解放」「思いやり」「共感」「ねぎらい」などの天の理法です。調和と進歩でいうならば、進歩しながらそこには必ず気持ち良い大調和が生まれてくる方向へ、時代も人も変化しています。調和の時代ですね。 その時代の特徴が「人生は楽しむもの」なのです。 だけど、外側のあなたのエゴが「楽しむ」と言うと、それは単なる快楽になってしまいますよね。ただ心の本質が「楽しむ」というのは「至福感」「いのちの感動」を味わう楽しみです。それは快楽的な楽しいことではなくて、何もない普通の暮らしの中で、お腹の底から「フフフッ」と至福の微笑みがこぼれてきそうな、そういう楽しさです。 仕事中でも、家庭に帰っても、何だかよくわからないけど「フフフッ」と喜びが込み上げてくる気持ち良さ、これが至福の感覚です。この感覚は、意識して認識しだすと、もっと増えてきます。 そう考えると「何が何でもテーマを探さなくちゃあ」とか「精進しなくちゃあ、頑張らなくちゃあ」って言ってるうちは、結構深刻になってたりしますが、自分の“いのち”を喜ばせてあげて、自分をねぎらい、自分のことを愛おしいと思うようになると、「なんだか、幸せだなあ〜」と緩んだ瞬間、「ああ、このために生きてるんだあ〜」という思いが、ポッと自分の中から出てきます。それが本当の幸せってことなんじゃあないでしょうかねえ〜。 ☆自分の“いのち”を喜ばせ、ねぎらってあげてるうちに、自然と幸せだと感じられ瞬間が訪れてくる。 |
「気にならないのが幸せの条件」 (2007.5.9[Wed]) |
自分を好きになったり、自分を愛せるようになると、何事も気にならなくなっていきます。この「気にならない」ということが、実は人生を楽しくする一つのカギなんです。不幸なのは、気になることが多いからだけなんです。 この気にならない感じが体験できた人が、いつの間にか「気にならない部屋」に入っていきます。「まあね、いろんなことが気にならなくなったわ」って言って、もっとその奥に入っていきます。「これも気にならない、大丈夫になったわ」と、どんどんその境地が深くなっていきます。その奥の部屋、その奥の部屋と、いろんな体験や経験を通して、気にならない深さは増していきます。 自分で自分の心を満たすコツがわかってくると、それまで心を悩ましていたことが気にならなくなります。そして様々なものに心がとらわれなくなっていきます。それがまあ、平常心とか不動心ということの始まりなんだと思います。 この気にならないが深まれば深まるほど、人生楽しくなるって分かりますよね。 若い時の僕は、こういう心境は修行とか苦行を積まなければ得られないと思っていたんですが、そうではありませんでした。楽しくそこに向かうことができるのです。それは昨日お話しした、「自分のために花を買って部屋に飾る。美味しいケーキを食べる。お気に入りの音楽を聞く。思い切って美容院にいって髪形を変える。美しい夕日を見る。お風呂に好きな香りを入れる。ガーデニングや鉢植えを楽しむ。少し贅沢なワインを飲む。好きな画家の絵を眺める。自然の中でゆっくりする。気持ち良い太陽の光を浴びる。寝る前に必ず“あんたのこと大好きだよ”って自分を好きになってやる。思い切って買い物をする。」こんなことを気楽にやり始めるとそうなっていくのです。 で、こんなことを話すと、「こんなに自分を甘やかしてもいいんでしょうか」という人が必ず現れます。でも、あなたは今までの人生で、自分をこんなにも甘やかしたことがある?って聞くと「いいえ」って言います。 今まで、人のことは考えても、そこまで徹底的に自分の心を満たすことは、多分なかったはずです。妻として生きる、親から見て良い長男として生きる、母として、いい嫁として生きる、経営者として、トップとしていいリーダーとして生きる・・・。そういうことにず〜っと一生懸命だったから、自分のために何かをしてあげるとか、愛情を注いであげるとか、そんなことをする余裕はなかったのかもしれない。 過去の自分を見てもそうなんです。長男、住職、園長、空手の師範、教育者として生きるって時は、本当にしんどかった。自分を偽り人によくみせようとする自分がいたからです。そういう大人の自分、見せかけの自分を取っ払って、自分らしく生きる。すると最初は周りから雑音が聞こえてきます、「まっいいか」って自分らしく気楽に生きてると、やがて静まっていきます。今だって、責任を担うことはあっても、責任感や義務感はあまり持ちません。とにかく自ら楽しむが僕のテーマですから、そのテーマに沿って何事も遊び感覚、ゲーム感覚でやってしまう。だから日々変化の連続だし、面白いって感じられる。これも自分のことを大好きだからできるんです。 ぜひ一度、試しに自分にあふれんばかりの愛情を注ぎ、楽しませ、大切に扱ってあげましょう。心地よくて、やみつきになっちゃいますから。 このことに本気で取り組んだとき、人は決っして堕落の方向へは行きません。これは子どもも大人もね。心を込めて真剣に自分をケアしてあげたら、より多くを望む方向ではなく、「もういい。これで大丈夫。安心だよなあ〜」って心がいっぱいに満たされる方向へ行き着くんです。自己評価が育つから。 大切なのは、自分を信じて育んで愛してあげることに罪悪感を持たないこと。不思議なもので、あなたの心が喜んで、楽しんで、愛がいっぱいになったとき、そのあふれたものが子どもや部下や周囲の人々に自然に流れていくようになってるんです。気持ち良く。 気楽な気持ちで、僕が提案した自分にとって気持ちのよいことを是非続けてやってみて下さいや。ウソみたいに自己評価、自己肯定感、安心感覚がアップしていることに気づいていきますから。 ☆自分を育んで愛すれば愛するほど、あなたの心は喜んで、楽しんで、愛がいっぱいになっていきます。すると自然にその愛は周りの人たちに流れ出していきます。 |
「自分自身を好きになる、愛することからまず始まる」 (2007.5.8[Tue]) |
保育園の保護者から「子どもに対してイライラするし、いつも怒ってばかりいる。子どもに対して愛情がないのでは、と不安も募り、何事も楽天的にとらえられない自分に疲れました」という相談を受けたことがあります。 「自分は母親なんだから、子どもを愛さなくちゃいけない」という強い思いから、まずスタートさせることですね。これは経営者でもそうだし、何かしら役職を持ったりして、「こうあらねばならない」と強く思っている人はみんなです。 「子どもを愛さなければならない」「部下を愛さなければならない」って思うから、そこから、苦労が始まるんです。 例えば、僕なんて本来広島のお寺の住職であり、保育園の園長ですよ。千葉のナチュラルクリーンの会社の代表をやってるけど、本来はそういう役職があって現場に張り付いていなければならないわけです。そういう僕がいつも「お寺の住職として門信徒を愛さなければならない」「保育園に顔を出して子どもたちや保護者を愛さなければならない」って自責を持ちながら千葉にいたらどうなると思います?そう思い出した時から、物凄い心労や苦労が始まります。 だけど世間や一般常識では、それをきっちりやっていくことが正しいと評価していくのです。それで結果的におかしいことになってしまいます。 保護者の人に僕が伝えたのは、「今のあなたが一番最初にすることは、まず、自分自身を好きになって、自分自身を愛することだと思うよ。自分に愛を注いで、自分の心を愛でいっぱいに満たしたとき、そこからあふれたものが自然と子どもに届くじゃないかな。それがとても自然で自分も子どもも楽になる」でした。 人はどこにいても、何をやっていても、自分の心が愛で満たされてなければ、不調和なえねるぎーが相手に伝わっておかしくなっていくものなんです。いつも何かイライラしているしね。まず自分が満たされること。自分を大好きになること。自分を信じられること。そうであるならば、僕がお寺にいようがいまいが、保育園にいようがいまいが、大切な時だけ顔を出せば、僕の満たされた安心のエネルギーは必ず相手に伝わって、相手に安心と豊かさを与えていきます。だから、僕はこの千葉にいても何ら問題が起こってないわけです。当然周りの人たちの協力もありますが、まず僕が満たされてないとその協力すら義務的なものになって不自然です。 で、保護者の人に「自分を好きになるためにこれややってみい」って伝えたのが、「例えば、自分のために花を買って部屋に飾る。美味しいケーキを食べる。お気に入りの音楽を聞く。思い切って美容院にいって髪形を変える。美しい夕日を見る。お風呂に好きな香りを入れる。ガーデニングを楽しむ。少し贅沢なワインを飲む。好きな画家の絵を眺める。自然の中でゆっくりする。気持ち良い太陽の光を浴びる。寝る前に必ず“あんたのこと大好きだよ”って自分を好きになってやる。まあそんなことかな。とにかくそんなことを気楽に楽しくやっていったら、自分のことが好きになれるよ」って言いました。これらのことは僕が日常的に心掛けている気持ちのよいことばかりです。 その保護者の人は2週間で、まるっきり顔の相が変わって明るくなっていました。「先生、先生の言われてた事、なにげなくやってみました。するとどんどん気楽になって、人生ってこんなに楽しいものなのかって初めて思えました。今では子どもも家族も物凄く明るくなりました。原因は私だったんですねえ〜」と、ルンルンでした。特にご主人は輪をかけてルンルンなんだそうです。 なんとその本人が変わっただけではなくて、その人が気持ち良く変わると、つられて周りもどんどん動き出すということなんです。波動の法則なんです。そのためには、まずあなたがあなたを好きになり、愛せるってこと。そうなれば、どこにいても、何をしていても、すべては波動の法則通りプラスに動き出すってことなんです。 ☆自分自身を愛する事からすべてす始まります。 |
「今回の人生でこんな学びをしたい。こんな体験をしたい」 (2007.5.7[Mon]) |
僕たちの心の本質は、この世を卒業する日を自分できちんと計画してきて「この時期にこういう形で人生を終える」というのをちゃんと知っているようです。 人は必ず「私は、今回はこういうテーマを持って生まれてきました。今回の人生ではこんなことを経験したい。そしてこういうことに感動して、こういう気づきや目覚めをして、こういう思いをして・・っていう体験が全部終わったら卒業」って決めてきたとしたら、その人が旅立たれるタイミングは、持ってきた課題が全部終わったとき、ということなんです。 確かに外から見ると、不慮の死と見えるけれど、その人の“いのち”は「実は全部、予定通りでした」って、ことなんだと思います。 飯田さんの書かれた「生き甲斐の創造」(何千人のクライアントの退行催眠資料を学術的にまとめた本)シリーズを何度も読んでいて、「なるほどなあ〜」とうなずけることばかりです。例えば、若い方が交通事故で亡くなったとします。 「お父さん、いってらっしゃい」って家族が送り出したのに、夜になって、冷たくなって物言わぬ姿で帰ってきた、というような話を耳にしたときには「お若いのに亡くなるなんて、なんて心残りなんでしょう。お気の毒に」って僕たちは絶対に思います。 でも、その人の“いのち”は家族の“いのち”と約束をしていて「私は、子どもが5歳の時に先に旅立ちます。それによって、妻に大きな心の痛みを置いていくけど、この痛みを超えていく家庭で、彼女が得たい学びがどんどん深まっていけるように、私はこういう形で協力します」って、人生のシナリオに書いてあったりするんです。 本を読んでいて「大きな愛を学ぶためにかあ〜、なるほどなあ〜」って頭では理解できるけど、本当に自分がそういった立場に立ってしまったら、やはり当分は落ち込みます。ただ、人生の真実を知っておくのと、まったく知らずに永遠に悲しみにくれるのとは全然違いますよね。 実際のところ、残された家族は現実を受け入れ、その後の体験を通して何を体験するのかをテーマとして選んできてるわけです。自殺についてもです。 「僕は、これだけ大きなものを置いていきます。妻やお母さんは最初の2年間ぐらいは自分を責めるかもしれない。でもその後に、いろんな人にお世話になっていることに気づき、私の死を乗り越えて残された家族が力を合わせて仲良く生きる。そして同じ境遇の人にも愛の手を差し伸べて奉仕するようになる。そんな心の飛躍につながる大きな贈り物が私の死であるのです・・・」 実は「死」という悲しみのプログラムの本質には、こういった物凄く大きな愛があるのです。 だから、残された家族は、このプログラムをどういうふうに受け止め、消化して、どのように開花させていくか。それによって家族の今世の気づきや感動が深まるというわけです。 また例えば、何の罪のない人が通り魔などに襲われて亡くなる、ということもありますよね。しかし、その後、犯人が捕まり刑務所に入って深く悔い改めて、被害者に対して、また、その家族に対して心から謝罪し、許しを乞い、大いなる自己に目覚めるというシナリオになっているとしたら、その犯人の学びが順調に進むように援助したいという気持ちから、被害者は先にこの世を卒業する、というプログラムを書いてきている場合もあります。かなり辛いシナリオですけどね。 生まれ変わり死に変わりという、転生輪廻という大きな宇宙の仕組みの中で、人は自分の存在を提示しながら、気づき合い、学び合い、感動し合いながら生きてるわけです。たとえ、僕たちの目から見ると不条理なことに満ちているように思えても、大宇宙の仏の目から見ると、きっちりとつじつまがあってるのです。だから加害者も被害者も僕たちの計り知れないところで、そういう巡り合わせによって「必ず最後はいい方向へ進んでいくようになっている」ようです。 ☆生まれ変わり死に変わり、それぞれのシナリオで、お互いの気づきを共有し合って僕たちは生きている。そのことに気づけると、すべては必要必然ベストのタイミングで起こってくることが分かります。 |
「みんな仏の子」 (2007.5.6[Sun]) |
エゴ、プライド、見栄、常識、世間体・・こんなものを外していったら、みんな仏の子として輝きます。偉大な聖者も犯罪を犯した人も心の中にある本質は同じです。その上にかぶさっているエゴの衣の厚さが違うだけですね。 プライドという衣を着せたり、「人並以上にならなければならない」という負荷をかけていたりするために、本来の光が見えなくなっている人と、光を覆っているのはティッシュペーパーだけの人がいるように、外側の違いだけで、実は内側はみんな同じ仏の子としての光を持っているんです。 だから、タマネギの皮をむくようにエゴの皮をどんどん捨ててはがしていけば、最後には生まれたときと同じ光輝く純粋な心の本質の姿が出てくるんです。だれでもね。 心の本質は実に寛大に自分に付き合ってくれます。だから、もしあなたが何かで失敗したとき、心の中で「あんた、またやったの。ばかじゃない」とか言うような声が聞こえてきたら、それは本質の声じゃない。あなたの中に、いつの間にかつくりあげてきた「先生」と言われているような存在の声です。 僕も長い長い間、その声に悩まされてきました。いや、今でもその声が聞こえてくることは結構あります。 とにかく、自分にたいして批判、非難、叱咤、「常に慢心してはいけない。反省せよ」って、親や社会からずっと言われてきましたから、いつの間にか「そう生きなければならない」というようなものが自分の中にあって、その部分がいつも僕を監視していました。そして正しいことをやらせようとします。 心の本質はそうじゃない。「正しい方向に導くのではなく、楽しい方向へ導こう」とします。つまりこれまでずっと「正しいか、正しくないか」を判断してきた僕たちは、出てくる閃きや直感に対しても、その都度、道徳や社会的な常識論で判断して裁く習慣があります。「これは〇、これは×、これは正しい、これはウソ」って裁く心では、心の本質との付き合いはうまくいきません。 でも、心の本質とは一心同体。本質と友情関係、信頼関係が持てるようになったら、どんな出来事も子どものように無邪気に受け止めることができ、どんな問題がきても大丈夫なんです。心の本質はなんでも解決する力を持ってるからです。すごい応用問題がきても、もうその時点では、問題と思わなくなります。ただし、そこで自分のエゴがでてきたらエゴが応用問題を一見社会的には正しい判断のように思えたり見えても、結果的にはグチャグチャにしていきます。勝ったとしても遺恨を残したりします。 自分の心の本質の声を信じていると、各自に心の根っこが太くなって鍛えられます。そして、最終的には本質の言葉も消えて、フッとひらめく感覚になって、自然に心の本質と一体化していきます。 心の本質の特徴とは、 @良い悪い、レベルが上とかしたとか決して裁かない。人と比べもしない。 A必要なことが起こると教えてくれる。 Bあなたを罵倒したり、非難したり、軽蔑したりせず、どんなときにも強い味方になってくれる。 C「頑張れ」ではなく、「楽しんでね」が、キーワード。 Dあなたを一足飛びではなく、段階的に導いてくれる。 E今、ここを生き、日常生活を大切にする。 こんなところでしょうか。 自分の中の仏の子意識、心の本質との対話をどうぞ気楽に楽しんで下さい。 ☆正しいことより心の楽しいことを選択していく。そうしているうちに心の本質の気持ち良い声が聞こえてくるようになるよ。 |
「相手の気持ちに一歩近づく」 (2007.5.5[Sat]) |
自分の持っている価値観で人を裁いたり、非難したりする人って多いです。 まるで“対岸の火事”を見てるように、自分の側から勝手に解釈して「こういう人は信じられな」「こんな人も世の中にいるのか」「この人の考えてることはさっぱり分からない」というようなことをつい言ってしまいがちなんですが、そういう場合はちょっと間をあけて、「またこんなことやってる」と気づくことです。 僕たちは批評、評論することを求められているのではなくて、「相手の気持ちを理解する術」を学んでいくことが求められていると思うのです。 人を傷つけてしまった人も、正しさを主張する人も、もし環境や状況が違っていたら、そういう行動は取らなかったかもしれない。それは、その人のよい所が素直に出やすい土壌と出にくい土壌があって、様々な要因が積み重なって、その延長で悪いものが出てしまった、そういうことなのです。 そこで、この人には「そうせざるを得ない理由がある」という法則を自分の中に取り入れることによって、相手を裁くのではなくて、相手の状況を理解していく、認めていく自分に少しでも近づくことができれば、とても楽に生きることができます。そして自分がなにより成長できます。 僕もエゴの強い人間ですが、エゴにつかまっている時はこういう声は聞こえてきません。エゴとは、自分のご都合、建前、プライド、世間の常識です。自分の本当の心、純粋な心、本質とは違います。この純粋な心は、自分のフィルター、つまり偏見などを通さずに無意識のうちにやってきます。それが本音だったりするわけです。だけど、聞き取れる時と聞き取れない時があります。 僕たちは、今まで本音のままで生きることを抑えられてきて、社会や今の教育は、心の声、つまり自分の本質の声を聞かなくても済むような高度に発達したシステムを作り出していますし、その声を一生聞かなくても人は生活していけるようになっています。 でも、本当の自分の純粋な声、心の本質というもう一人の自分がいることが分かったら、その人との付き合い方が知りたくなりますよね。その方が楽しいし、物事も楽しく流れていきま すから。それには、まず自分と向かい合う時間を増やすことです。忙しすぎると、結果を焦ると、必ずエゴにつかまってしまいます。ですから、どんな状態になろうとも、心にゆとりや余裕を持って笑える時間をつくることが大切なのです。 さて、エゴの声と、自分の声の違いが分からないって人がほとんどなんですが、エゴの声は自分も人も成長を伴いません。ワクワクしながら成長することができないと言った方がいい。だけど、心の本質の声はあなたも周りも楽しく成長させてくれます。そこが大きな違い。その声がどんなに正しそうであっても、楽しくなければ、快でなければその声はエゴです。逆に楽しく、快であって、自分も周りもワクワク成長できる声は本質の声です。そこが大きな違いですね。 初めは戸惑いますが、善し悪しを判断せず、快か不快かで判断し、内なる自分を信じて、その声に耳を傾けていくと、付き合い方がだんだん分かってくるようになります。 じゃあ、どうやったら自分の心の本質の声が聞こえるようになるんでしょうか。 それは、自分の耳に届くように声を出して「今の自分が大好きだ」って言ってみるんです。こんなことって言ったことはないでしょ。ちょっと照れますよね。だけど、試しに言ってみると、口に出した瞬間に、お腹の辺りがモゾモゾしたり、ザワザワしたり、ドキッとしたり・・・。何か気づきます。その体の反応を起こさせたのが、あなたの心の本質です。 この心の本質は何があってもあなたと一緒です。どんなことがあってもあなたを見捨てることはありません。たとえあなたがどんな非難を受けてもです。だからあなたは一人ぼっちではない。あなたには凄い味方がついてるんです。これを求めて、人は、人とつながりたいと願い、愛する人を外に求めたり、探そうとするんです。ただ、この絶対的な自分の味方のもう一人の自分、心の本質が自分と共に歩んでくれてるって事が分かったら、外に幸せを求めるのではなく、もう本当に安心して生きていけるんです。 |
「人は良い部分が出やすい状態と、出にくい状態があるだけ」 (2007.5.4[Fri]) |
世の中にはいろんな人がいます。「なんでこんなイヤミなことを言うんだろうか・・」と思える人も、「どうしてこんなに自分の正しさばかりを主張するんだろうか・・」という人も。 でもその人にはその人なりに、心が満たされてない理由があります。 例えば、 ・家で奥さんに牛耳られている ・仕事が面白くない ・自分に自信がない ・過去に大きなトラウマがある ・実は、寂しがり屋で目立ちたがり屋 ・このところ体調がよくない ・幼いころ、親に愛されなかった ・子どもが自分の思い通りにならない まあ、こういった具合にそれなりの理由があるわけです。 だから「この人ってえ・・・」と思う人でも、何らかの理由があるし、原因がある。 で、人には「それをするなりにはするなりの理由がきっちりある」というのがわかってくると、相手の言動を客観的に見れるんです。 例えば、今回の「NCは水洗いじゃなくドライで洗っている」と言い張る会社の社長さんもそうだと思う。この人は自分の正しさを主張してクリーニング業界をメッタ切りしています。その強い思いはどこから起こってくるのかはさて置いて、言ってることはもっともなことばかりです。 ただこの人の書いた本を読んで、はっきり言って楽しくないね。“いのち”が喜ばないですね。藤井さんも「気分悪い!」って言ってたけど、それは当たってるとか当たってないとかじゃなくて、他を批評批判して自分を持ち上げること自体が気持ち良くない。不快感を感じますよ、義理人情の熱い特に日本人はね。合わないんです、そういった敵を外に作り、自分の正義を主張していくアメリカの十字軍方式は。 決して僕はなあなあ主義を肯定してるわけではなく、いけないところは改善していくのは当然なんだけど、改善していくためには気持ち良く、納得してやっていかないと、言われて意地になったり、「なにくそ!」と一時的に頑張っても、心の位置は何ら変わってないってことなんです。だから必ず歪みが起こってきます。表面的には一見正しくなってもね。 たしかにあの社長さんの言われてる通り、僕もクリーニング業界の内実(ただこれはどこの業界もそうなんですが)知れば知るほど、「へえ〜〜」って驚きましたよ。2年前、まったく違う生涯教育やお坊さんの世界から飛び込んできたわけですから。 ただね、本当にクリーニング業界の人たちを良い方向に変えようとするのならば、相手を批評批判して敵をつくっていくのではなく、「そりゃあそうだ」という共感者や、「これじゃあいけない」って気づく頭の柔らかい人たちを少しでも増やしていくことでしょう。そして「自分は、その人たちにどういう働き掛けができるだろうか、どこを助けてあげれるかな」って考えて、気持ち良く行動を起こせる状態や土壌を自然と生んでいってあげることだと思います。そこには温かいハートがないと・・。 また人で言えば、例えば、自分に自信のない人だったら、その人いいところをしっかり見て、心から「こんなところが凄くいいよ」って心から褒めてあげて、自信を取り戻させてあげる。寂しがり屋だったら、ちょっと声を掛けてあげる。そういうふうにして、いろんな引き出しを開けながら、どのように解決や改善していくのかが、面白いわけで、本当は「人には、良い人と悪い人がいるわけでなく、自分の良い部分が出やすい状態と、出にくい状態があるだけの違いで、みんな人の子。人間一人ひとりは変わらない」ってことなんじゃないかなあ〜って、最近つくづく感じるのです。僕も欠点だらけの人間ですから、特に。 ☆人の表面でなく、何故その人がそうせざるを得ないのかを見極めていく。すると嫌な人のほとんどが自己評価、本当の意味での自己肯定感が育ってない、愛に満たされてないことに気づかされます。するとその人の良いところを見ていこうかな、という気になりますよ。 |
自分の人生はプログラムしてきている (2007.5.3[Thu]) |
「自分の運命が自分以外の何者かにプログラムされている」または「運命は神様、仏様が決めてくれたこと」となると運命論になります。 が、そうじゃない。僕たちは、生まれる前の「いのち」の状態の時、自分で自分の人生のシナリオを書いてきて、僕たちが体験すること、目の前に起こってくることは偶然じゃなく、すべて自分で決めてきた必然、起こるべくして起こると、僕は感じています。 ここでいう「起こるべくして起こる」というのが、何故運命論とは違うかと言うと、運命論者は、起きてくることに対して従順な思いで、受け身でとらえます。しかし、ここでの必然という意味は、「起きてくる現象は、すべて自分の“いのち”が書いてきたシナリオの一部だ」と自分が責任を持つことなのです。 自分の“いのち”が、自分自身の心を成長させるために「今回の人生では、こういうことを学びましょう」と決めると、それを遂行しやすいような状況を、僕自身が選んで生まれてきているわけで、それを受け入れるのも僕自身なんです。 この僕の“いのち”の本質(モバイルパソコン)と大宇宙の本質(ホストコンピューター)とつながっていて、自分の“いのち"の本質とそれにつながっている“大いなる宇宙の本質"の両者が納得したとき、そのときにしか物事が起こらないと感じています。 そうすると、起きる出来事は、すべて必然と言えます。つまり自分にとって嫌なことでも、「はめたのは自分の本質だし、はまったのは自分のエゴ」なのです。 ただ、自分のエゴは、そのことをすっかり忘れてしまっているだけで、みんなちゃんとシナリオ通りに、しっかりスケジュールをこなしてるってことですね。 と言っても、シナリオの書き方はそれほど細かくないらしくて、例えば「この時に悲しみにくれた状態から無条件の愛を体験し始める」というように大まかな書き方のようです。どう体験するかは、自分で自由にコーディネィトできるらしい。 その「このとき」というのが、「最愛の人に去られる」とか「子どもが手から離れていく」とか、「リストラされる」というように、自分が最も学びやすい状況を自分の“いのち"の本質が事前に用意している、というわけです。 だから、その出来事に対して「外側の自分が内側の自分をどれだけ信頼して、ものごとに対処できるのか」がとても大切になってくるわけですね。 起こることはすべて必要必然ベストのタイミングで起こってくる。でもそれは自分の本質と大宇宙の本質がオッケー出したものしか起こってこない。ということは、宇宙は絶対に僕もあなたもつぶすことはないってことなのです。 だから、その人に乗り越えられるプログラムしか目の前に表れないってことなんですよ。大丈夫、安心して人生を楽しく強く生きていきましょう。自分の本質を信頼しながらね。 ◎人は自分の書いたシナリオ通り、目の前には必要必然ベストのタイミングで表れてくる。決して乗り越えられないものは表れてこないので、安心してやっていきましょう。ちょっと遅れちゃったけど、昨日は木更津工場の吉田麻里子さんの誕生日でした。おめでとう。 |
「忙しいのを言い訳にしない」 (2007.5.2[Wed]) |
「忙しい」のを理由に、しなければならないことや、できることを後回しにしてしまう、そのことによって、相手を傷つけたり、相手の信頼を失ってしまうものです。こういうことは絶対にしてはならない、と僕は思って生きてます。 ある人は、「忙しい、時間がない」と言い訳しながら、人から頼まれた、わずか5分でできる仕事や約束を後回しにしてしまいます。 そういう未処理の仕事が、机の上に山のようになってしまいます。「忙しい、時間がない」と言いながら、それを繰り返してしまう。 僕はいつも「感じたら即動く」ということを部下たちに徹底させてるつもりですが、何度も何度も繰り返し言っても、本人の本気、自覚がなければ何にも始まっていきません。 ですから、「今、ちょっと忙しいので・・・」を言い訳に使ったり、動くことを後回しにしていたりすると、仕事運は確実に逃げていきます。 「今、ちょっと忙しいので」と、つい言ってしまったら、「取りかかれるのは、あと一時間後になりますが、それでもよろしいでしょうか」と付け加えることです。 その人に前向きな姿勢があれば、時間は必ず作れます。必ず作れるものなのです。 とにかく「できない」言い訳をしないこと。そう決めて行動しない限り、過去の現状維持メカニズムにつかまってしまって、いつも言い訳ばかりの人生を生きていってしまいます。 「時間がない」「お金が無い」「才能がない」「実力がない」は、やらない人の言い訳なのです。「時間がない」「お金が無い」「才能がない」「実力がない」は、ほとんど誰にでも当てはまります。「できない」「やらない」ための、言い訳はいくらでもあります。 言い訳で自分を守っているうちは、その人は自分の殻を破れません。すべての企業のシステムや新技術は、「できない」から「できる」への挑戦です。 常識的には「できない」ことでも、非常識、超常識によって「できる」に変えることなんです。こうして、どの分野でも画期的な新しいものが生み出されていくものなのです。 「できない」と言い訳を並べている企業は、いずれ消えていくでしょう。 あなたも「できない言い訳」ではなく、「できる」方法を探しましょう。「できる」「できる」「私は絶対にできる」と念じていると、必ず新しい道が開いてくるものです。どうすれば「できる」のか知恵を絞り、人の助言を聞き、汗を流して本気で取り組んでいきましょう。 ☆「できない」「やらない」より「できる」方法を本気で探す。人に助言を受ける。 |
仕事に願いを込める (2007.5.1[Tue]) |
昨日は銀座の「●●●」、有楽町の「▲▲▲」とオープンホヤホヤの「◆◆◆」に行ってきました。 こうやって、ショップの現場を回ってみて実感したことは、「やっぱりこうして実際に回って、店長や店員さんたちに会わないと、電話や文書だけでは決して絆って生まれないよなあ〜」です。 どこもここもお伺いしてお話し出来たことを、大変喜んでくれました。こうやって絆が生まれていくと、クレームがクレームにならないし、お互いがサポートし合えるいい関係が生まれていきます。 なんでもかんでもやはり、「人と人」とのつながり、絆、信頼関係なんですよね。 そのためには、実際に会って、仕事を通して人は幸せになれるということを感じ合わなければならない。つまり僕たちの考えや生き方に共感してもらうってことです。そうすると、「ああそういうことだったんだ」って、今まで・・「うん?」と思ってたことが、すべてプラスに転換されていきます。面白いぐらいに。 仕事にしっかりした目的やビジョンがあれば人は幸せになれるって実感しています。また仕事を通して人を幸せにできる、とも。 今日僕が各ショップに行ってお伝えしたことは、「お客さんやショップの皆さんのお役に立たせてね」です。決してうちを売り込んできたわけではありません。自分たちをサポートしてくれようとする心が伝わるから、みんな気持ちよく喜んでくれるのです。 大切なのは、仕事をする心です。その奥にある願いです。 心は目に見えないけど、品物や仕事自体よりも価値があります。 あなたの仕事には、あなたのどんな心がこもってるのでしょうか。あなたが日々している仕事に、あなたの「お客さんに少しでも喜んでもらいたい」と言う願いをこめてみましょう。 また、家族の幸せを願って今日の一日の仕事をしてもいいし、病気の人が治るのを願って、今日一日の仕事をしてもいい。 つまり人が幸せになることを願って仕事をしていけば、その仕事は非常に価値があるものになります。 そういう心があれば、あなたも、周りの人もきっと幸せになります。 仕事を通し人は幸せになれるし、仕事を通して人を幸せにできます。大切なのは、仕事をする人の心です。すべては心なんです。 ☆昨日は久保田さんがプレスの実習を行ってくれました。さすがプロ!みんな学ぶことが大いにあったようです。今後とも宜しくね、久保田さん。今日1日は、長谷川絵奈っちの誕生日です。僕と初めてあった時、君自身4人の子持ちになるとは夢々思わなかったでしょう。ただ、子はカスガイだから、子どもに育てられていくんでしょうね。それがプログラムってことで。子育てバンザイ! |
|