2007年02月の日記

「自分が太陽になる」 (2007.2.28[Wed])
夫が気性の激しい人で、子供や自分に対して怒鳴り続けてきてとても辛い思いをしてきた。二十年間怒鳴られ続けた息子が、引きこもりになって、もう二年間も部屋から出てこない。家庭の中は笑顔がなくて、暗く辛い日々でまるで地獄のようです。どうしたらいいのでしょうか。ということでした。
で、僕はこう伝えました。

「あなたの顔を見ていても、ぜんぜん明るさがないよね。」

「あれだけ夫に怒鳴られていたら、子供も委嘱しているし、全く楽しいことがない辛い日々なので、笑顔になんてなれけません」

「じゃあね、僕の提案ですが、夫のことも子供のことも、今この瞬間忘れてしまいましょう。自分だけがどう人生を楽しむかだけを考えましょう。怒鳴っている夫は無視。引きこもってる子供も無視。
自分がその家族のことを考えて暗くなっていることにまず気づいてね。あなたが笑顔になって明るくなったら、家の中は明るくなりますよ」

「え〜そうは言っても、だって夫がこうで、子供がこうで・・・」、とその方は言い続けました。それから二カ月経って、法話会に参加されたその人は相変わらず同じことを言い続けてました。
僕は、こう言いました。
「ひょっとして一番暗いのはあなたなのかもしれんよ」

それから二カ月後、彼女はまた法話会にやってきたのですが、このときは、とてもニコニコしていました。他の人も驚くぐらいで、前回までは、無表情で暗くてつまらなさそうな顔をしていたのに、一体何があったのでしょうか。

「思い切って夫のことも子供のことも考えるをやめました。そして、人生を楽しもうとして、外に出て働きだしたんです。すると職場の人もよくしてくれて、毎日が新鮮で楽しくて楽しくて。すると、ある日、食事の支度をしているときに、息子が、お母さん、最近なんか変。どうしてそんなに楽しそうなの?って聞くのです。その時、もう私は人生の中にお父さんもあなたも関係ない。だから、好きなだけあなたは引きこもっていたらいい。私は、お父さんにもあなたにも関心がなくなったの。私は仕事をやり始めて、楽しくて、楽しくてしょうがないから、あなたは自由に部屋に引きこもっていればいい。と言うことができたんです。そしたら、なんと息子が、僕も働こうかな、と言い出したんです」。

夫と子供を変えようと思っていたときは、二十年間かけて笑顔にもならなかった。他人を変えようと思ってもむだで、何一つ解決しません。人は人で自分の人生を気に入って生きているのだから、自分の価値観で、こういう生き方が良い、正しい生き方だと言うのをやめましょう。それをやめることができると、悩み、苦しみ、苦悩、煩悩から解放されて明るく生きていけるのです。
☆自分は自分で楽しく生きると決めて歩きだしたら自然と光って太陽になれます。

「すべてが、あなたにちょうどいい」 (2007.2.27[Tue])
お釈迦さんの言葉に「すべてがあなたにちょうどいい」というのがあります。

今のあなたに、今の夫がちょうどいい。
今のあなたに、今の妻がちょうどいい。
今のあなたに、今の親がちょうどいい。
今のあなたに、今の子供がちょうどいい。
今のあなたに、今の兄弟がちょうどいい。
今のあなたに、今の友人がちょうどいい。
今のあなたに、今の仕事がちょうどいい。
死ぬ日もあなたにちょうどいい。
すべてが、あなたにちょうどいい。

というものです。

よく周りの人を批判する人がいます。

でも「すべてが、あなたにちょうどいい」のです。

夫婦関係や親子関係で、「うちの夫(妻)は、こんなにつまらない人で」とか「うちの親(子供)は、どうしょうもない」など、文句や愚痴を言う人がいます。でも、この言葉(すべてがあなたにちょうどいい)を知っている人から見ると、その人は愚痴を言った瞬間に自分の価値観を全部さらけ出しているのです。

つまり、「それにちょうどいいあなた」なのですから。

「すべてが、あなたにちょうどいい」

人の悪口を言わない人には、その悪口を言わないというあにたに対してちょうどいい、悪口を言わない友人が集まって来ます。

人の悪口ばかりを言っている人には、人の悪口ばかりを言っているちょうどいい友人が集まって来ます。

「嬉しいよね」「楽しいよね」「ありがたいよね」と言い続けている人には、「嬉しい」「楽しい」「幸せ」と思っている人たちが集まってきます。

すべてがあなたにちょうどいいのです。

その一言をじっと噛み締めると、世の中の現象のかなりの部分が見えてきますよ。

☆すべてかんがあなたにちょうどいい。死ぬ日さえもちょうどいい。人生にはちょうどいい人とちょうどいい出来事しか現れないようになっています。

「相手を受け容れて喜ぶ」 (2007.2.26[Mon])
それは、実は、人を変えないこと。この人を変えようと思っている間は、自分の悩み、苦しみ、苦悩、煩悩は永遠と続くとお釈迦さんはおっしゃる。

でも、相手を変えるのではなくて、相手の存在を丸ごと全部受け止めること、「私」がこの人にどう対処するかだけを考えるんです。
「この人は、このままでいい」って思い切ることができたなら、その瞬間から自分の悩みや苦しみや辛さやストレスは消えていきます。

でも自分の周りの現象に対して「あ〜したい、こう変えたい」って、自分の価値観を押し付けようとしたときには、実は自分が苦しみます。

じゃあ、どうすればいいのか?

「私」をとり囲んでいる状況、環境を全部受け入れて、そのままの状態を私が喜ぶ、喜べる「私」になるだけ。他人をどうのこうのしようとは思わない。
「私」がその現象を、その人間関係を、どう受け入れて、どう対処していくかということだけを考えていくと、何よりも本人にとって、楽しい日々がはじまります。

例えば、もともと夫婦というものは、完全に考え方が一緒ではなくて、「いかに違いを認め合って折り合っていけるか」を学ぶ最高のパートナーなのですから。

で、僕の友人はこう言ってました。
「ケンカというものは、売る側がいて買う側がいるから、初めてそこでケンカが成り立つ。私は売ることもしないが買うこともしない。だから、そちらも、売ることもしないし買うこともしない、と決めてるのよ」

さらにこうも言いました。もし言いたいことがあれば、お互いに意見を主張すればいい。それは笑顔で言えばいいことであって、ケンカなんてする必要はない。大人になるというのはケンカをしないということだしね。ケンカをするのはお互いが幼児性が強いからなんだよ。
彼は、結婚とは幼児性の克服のためにあると言いいました。「う〜ん、その通り」。

家庭を持って、妻に対して、夫に対して、あるいは子供に対して、「私」が気に入らなくて爆発する。その「私」の幼児性を克服するために結婚があり、家庭が存在すると彼に教えてもらいました。

☆ 家庭というものは、ただ自分の思いを通すための甘える場所でも、ストレスを発散させる場所でもないのです。幼児性を克服して大人になっていくための作業場として、結婚があり家庭があるということですね。

「夫婦の愛情は三年しか持たない」 2007.2.25[Sun]
僕たち夫婦は今年の10月24日で結婚25周年の銀婚式を迎えます。同じく25歳で結婚したわけですから、二人とも今年で50歳。いや〜、はやいもんです。

この25年間いろんなことがありましたが、何故今でも夫婦として続いているかというと、結婚後三年間に愛情以外の概念をつくり上げたからだと思います。その概念とは尊敬という概念です。これが育っていたお陰でなんとか25周年を迎えられるのです。

普通は、結婚すると周りから「ゴールインだね」「よかったですね」と祝福されますが、実は結婚したその瞬間から執行猶予三年が始まります。その執行猶予三年の間に、愛情以上の価値観を夫婦の間につくり上げることが結婚生活らしいのです。

最初は、愛情で結ばれた三年間というものがあるんですが、愛情を永遠のものだと思って勘違いして、その愛情だけに寄りかかっていると、どうも三年以降は破綻するらしい。
「私は誰がなんと言っても絶対に生涯この人を愛し続ける」と思っていても、その気持ちは三年で必ずしぼんでしまう。でも、この人を嫌いにならない猶予期間が三年あるのなら、
その三年の間に尊敬という概念をお互いにつくり上げることができると、波瀾万丈的なことがあってもどこかで「この人とずっと一緒にいたい」って思えるのだそうです。

それは、相手の中に尊敬できる箇所を見いだすということも大切ですが、自分の中に相手から尊敬されるものをつくるというふうに考えた方が、より良いと思います。
それは夫婦の関係だけでなく、親子の関係、仕事場の上司と部下や同僚との関係もそうでしょう。
親だから偉いのではなくて、親だから言うことを聞いてもらえるのではなくて、子供から尊敬される親になることを目指すということですね。

尊敬されるということで言えば、絶対的に必要なものがあります。それは実践です。
「夢や志」「笑い」「感謝」の三つが、最大の実践です。

相手との違いを認めるより、夫婦とは同じ価値観、同じ方向性の方がいいと考える人もいます。幸いに、日ごろはバラバラのことをやっていても、嫁とは仏さんの願いを聞くという上では一緒ですからありがたい。
でも魂レベルで勉強していくと、結婚するということは、相手にはこういう個性があって、自分とは違うものを持っているんだ、ということを認めることです。これは夫婦だけでなく、親子も上司と部下もです。

相手にどう変わってもらいたいかではなくて、私がその人のことをただ受け容れることです。この人は、そういう個性的な人であること、そういう価値観を持っているということを認められるかどうかなんです。
目の前の夫、妻、子供、部下、同僚を思い通りにつくり変えようと思っている人は、ずっ〜と辛いです。だって、そうは絶対なりませんから。
☆お互いの心の中に相手を敬うという尊敬の心が育っていればどんなことでも乗り越えていける。

「人生のシナリオで用意された人」 2007.2.24[Sat]
すべての存在は、自分の心を広げるためにいてくださる存在で、ある時期に、ある人から“最大限”に学ぶことができるように、人生のシナリオにその人を用意してきているとしたら・・・。

その人たちとお互いに約束をして、「夫になりましょう」「妻になりましょう」「子どもになりましょう」「私の心を広げ寛容度合いを上げるために、いろいろ気に入らないことをやって下さいね」という具合に。

そのシナリオ通りに、今、再会しているのなら、いろいろ「気に入らない」ことをやって下さる方は、もしかして、一番感謝すべき損存在かもしれません。本来、困難な人間関係があるのではないのですから。

正義感、使命感、義務感の強い人は、なかなか目の前の嫌な人が受け容れられない。

相手は悪気がなくて普通に話しているのに、自分の正義感、使命感、義務感に反するという理由で糾弾してしまうのです。あの人は悪い。私は悪くないと。

しかし、正しさというのは、いつも変化していくものです。価値観には、必ず時代性というものがありますし、ものごとには様々な局面があります。

自分の中に、正義と使命は持っていてもいいですが、そこに「感」がつくと、周りの人は少し息苦しくなっていきます。

正しさということを前提にすると、状況もわからないのに、どうしても正義感と使命感で人を批判してしまうことになりますから、これからは、自分に対しても他人に対しても、正しいから楽しい方向へと切り替えていきましょう。

自分が楽しいと思えることをまず考えましょう。

楽しいというのは正しいとらえ方なのです。

正しいと楽しいは、一字違いです。同じ方向性を持っているのです。正しく生きるということは、楽しく生きるということです。楽しいことが正しいことだと思って下さい。

そうすると、自分が楽しく幸せに生きているのだから、人が楽しいことをやっていても認められるし、気になりません。ニコニコ笑って見ていられるだけです。

☆楽しくラクに生きている人は、周りもラクで楽しい、ということですね。

「相手を変える必要はない」 (2007.2.23[Fri])
自分に厳しく生きていると相手に厳しくなってしまう。

ある法話会の後で、結婚してがっ〜と夫が好きにならなくて、夫を否定してきた奥さんとお会いしました。

その人は、それじゃあいけないと思って、精神的な本を読んだり、精神的な勉強をしていく中で、ある人からこう言われたそうです。「夫を変えるためには、まず、自分が変わらなくてはね」って。

そしてその奥さんは「あらためて今日のお話しを聞いて、まず、夫を変えるためには、自分が変わるということがよく分かりました」とおっしゃいました。

僕は、こう言いました。「それは違うね。僕は夫を変えるためには、自分が変わらなくてはいけないって一言もいっとらんよ。夫を変える必要なんてないって言ったんよ」。

「夫を変えるためには、まず、あなたが変わること」なんて論理ではなくて、あなたがすべてのことに関して、「まっいいか」って受け容れて「気にならない人」になったら、問題が全部解決するんです。

もし仮に、相手を変えるために自分が変わったとして、二三カ月経っても、相手が変わらなかったら、さらに苛立つでしょう。もっとパワーアップして恨みます。

お釈迦さんが提案している解決策は、「その人の存在、その人のいのちを全部認めましょう」ということなんです。これを「受け容れる」と言います。

相手を変える必要なんてどこにもない。その人を認めて、自分が「気にならない人」になったら、それで終わり。

ありとあらゆることに気を遣うのはやめてしまうんです。
多くの人は、自分の価値観の中に相手を連れてこようとして苦しむんですが、その人の良いところも悪いところも踏まえた上で、そのまま受け入れてしまえばいい。

ニコニコしながら、「世の中には、そういう人もいるのよね」って、自分の価値観を押し付けないで、気にならない人になる。

そうなるためには、自分という人間はたいしたものではないという自覚を持たなければならない。「自分はたいしたもんだ」という自意識が夫を裁くからです。

仏さんの心に遇ったら、本当に自分の傲慢さや愚かさに嫌気がさしてきます。そのとき初めて夫のことが自分とおんなじなんだって思えるようになる。すると受け容れられますよ。
☆そもそも宇宙にはイライラする現象があるのではなくて、イライラする考え方をするから、そこにイライラしてしまうのです。

「頑張らなくていい」 (2007.2.22[Thu])
自分に厳しく人に優しく。そうなればいいのですが、自分に厳しい人は、他人に対しても、同じレベルでその厳しさを求めます。

でも、正義感や責任感は、持っている本人が一番苦しいんです。

私は父親がお寺の住職であり学校の教師だったので、正義感、責任感、使命感、達成感を教え込まれました。気が付いたら、それにがんじがらめにされて、すごく大変でした。

結局、高校生の時父親に反発して世間では不良と言われることもやってきましたが、根が生真面目なので、高校から始めた空手はやめませんでした。

大学の空手部で縦社会で、いつのまにか自分が嫌っていた、正義感、責任感、使命感、達成感を生きていました。そしてそれを生きていない人たちに対しては、「軟弱で横着な奴」と決めつけ、軽蔑と、心での裁きの日々を送っていたように思います。

大学を卒業し、地元に戻ってお寺の経営する保育園に出て「おにいちゃん先生」として子どもたちと遊ぶようになった時から、今まで養ってきた正義感、責任感、使命感、達成感がすごく邪魔になっていきました。

子どもにはいくら正しいこと言っても、感覚的に楽しいことでないと全く動かない。言うことを聞いてくれない。今までの大人の筋論がまったく通用しない。

 困り果てていた僕を見かね、当時付き合っていた現在の嫁さんが「レクリィエーション研修に行ってみたら」と日本レクリィエーション協会の二級公認資格者研修会の一年コースを進めてくれました。体育会系の「押忍」の雰囲気とは違った和気藹々の雰囲気に全く馴染めず、当初は人種の違いに物凄く違和感を感じました。
 
ただ、その人たちとも共同生活の中で次第に親しみ、人前に出てレクリィエーションの指導をさせてもらう度に、それを一個ずつはずしていきました。と同時に、お寺で仏さんの話を聞くことも増え、なんとなく心が自由になったとき「あ〜人生ってこんなに楽だったのか」と気づきました。

人を糾弾し、批判し、自分に対して厳しい人は、確かにしっかりとは生きているのですが、若い時の僕のように、あまり楽しそうな人生には見えません。

反対に、自分にも他人にも優しく生きていると(仏さんに生かされていると実感していると)、すべての人の善意と好意の上に生きているということに気づかされていきますから、すごく楽しいんです。

人生は人に優しく、自分に甘くでいいのではないでしょうか。
☆これからは、自分にも他人にも甘く優しく生きてみませんか。自分も楽だし、何より回りは、そういうあなたを歓迎してくれるでしょう。

「悩みの本質とはすべて自分の思い通りにしたいということ」 (2007.2.21[Wed])
人から悩みを伺うとき、すべてに共通点があります。

その共通点とは「自分以外の人間を自分の思いどおりにするにはどうしたらいいか」ということです。

相談者の内容は全部違って全部共通点がある。 それが「思い通りにしたい」です。

その対象は、子どもであったり、親であったり、夫であったり、妻であったり、ご近所の人であったり、職場の同僚であったり、上司であったりするのですが、結局は、自分を取り巻く人間関係の中で、その気に入らない人を「自分の思い通りにしたい」というのが悩みの相談のほとんどです。

「実は子どものことなんですが・・・」

「職場にですねえ・・・私にすごく辛く当たる上司がいるんです」

「実はご近所にですね・・・・」

「友達のことなんですが、実は・・・」

およそそういう人達には笑顔が無い。おおよそ日常生活でほとんど笑顔がない状態で、そのように行く先々で、家庭の中で、職場で、あるいは友人の中で、いつも「これが問題だ、これが問題だ」と言い続けているのです。

この「これが問題だ」波動は、好んで自分に問題を引っ張り込みます。

また「これが問題だ」波動は、相手からは「私のそばに寄ってくるな」という意志や作用が明らかに働くと思います。

「問題だ、問題だ」と繰り返して考えたり思う人の空気を吸うことは、物凄くストレスが溜まります。

なるべくこの人がそばに寄ってこないようにという意味で、子どもも、夫さえも強い言葉を言ったり、言うことを聞かなかったり、否定的な言葉を言ったり、その人の顔が曇るような言葉を投げつけたりということを繰り返してきたのです。

問題はとても簡単。「問題だ、問題だ」というふうに言ってる自分のその感性を完全に止めることにあるのです。

「こんな楽しいことがあってね、こんな嬉しいことがあってね」と笑顔で話す人には問題は寄り付けないのです。
☆すべての問題は相手を自分の思い通りにしようとするから起こる。ただそれだけ。

「強い思いを持たなければ楽になれる。幸せになれる」 (2007.2.20[Tue])
お釈迦様の教えたかったことは、強い思いを持たなければ楽になれるということです。

強い思いとは、「こうあるべきだ」「あああるべきだ」「なんで自分が」「でもね」「だけどね」「しかしね」全部強い思いを持っているからこういう心が起こって、苦しみ悩みが生まれていきます。

強い思いを持てば持つほど、悩み苦しみが増えるのです。

強い思いを持たないで、今、目の前に自分を囲んでいる状況があれば、それを受け容れたらいい。

これがお釈迦様が提案したことだと思います。

このように、実は受け容れることをずっと高めていくと、仕方なく受け容れるところから、次第に喜びを持って受け容れる、幸せを持って受け容れる、そして、感謝の心で受け容れるというところまで、人間は受け容れる心を高めることができるのです。

お釈迦様が言われたように、

受け容れるここというのは、その受け容れの最高峰は、「感謝」というところまでいってしまうのです。

何かを叶えてもらったから、ありがたい、嬉しい、楽しい、幸せというふうにとらえているのに、感謝というレベルで言うと、まだまだなのかもしれません。

自分の思いや願いを叶えてもらったからありがたいのではなくて、今、おかれている状況そのものが、実はありがたさに満ちているのではなかったのか。

目が見えること。
耳が聞こえること。
呼吸ができること。
食べれること。
自分の足で歩けること。
話ができること。

ありとあらゆること全部、実は、ありのままの真実に気づき、その素晴らしさを受け容れた瞬間から、感謝に変わるのではないでしょうか。

☆日々あたりまえだと思っていることの中は感謝でみち溢れている。

「受け容れる段階」 (2007.2.19[Mon])
「ああそうなの」と受け容れるのには段階があります。

一番最初の段階のレベルは、嫌々仕方なく、しょうがなしに受け容れるというのがあります。不服を言いながらも、自分の思いとは反対のことであるけど、仕方なく受け容れる。これが受けいれる中で一番否定的な受け容れ方になります。

ただ、仕方なく受け容れている、しょうがないから受け容れているという状態では、自分の心が楽しくない、辛いという状況が付きまといます。
この場合の受け容れは楽しくありません。ですから、「べき論」とは違うところで、自分が楽しくなるような受け容れ方をするほうがよいのです。

知人が「癌」を宣告され、「頭の中が真っ白になった」と言っていました。

あと一年の命と言われたのです。その半年の間、ありとあらゆる治療や療法を試みて、自分の命を延命させたい、なんとか命を助けたい、自分を助けたいと頑張りました。ただその時は苦しかったそうです。

それから半年経って、仏法を聞いて死ぬことを受け容れました。そして人生を考えました。今までは、家族のため、会社のため、あるいは自分が向上しなければならないということで、無理矢理努力をしてきた。

一切そういう努力をやめて、自分がこの世に残したい絵に打ち込みました。死ぬことを受け容れて、あとは死ぬまで何枚絵が描けるのか、それだけを考えて生きました。

そういう生き方、考え方を、「受け容れる」といいます。

初めは仕方なく受け容れていたかもしれません。しかし、仏法を聞きながら、絵を三枚、四枚、五枚と描くうちに、彼はこう思ったそうです。

「ああ、癌になってよかった。癌にならなければ、こんな状態やこれだけ平穏な心を死ぬまで味あうことはできなかった。自分は癌になってよかった」と。

やがて彼はいつでも感謝で癌に手を合わせて合掌していました。「ああ、癌になったから、こういう至福の時間を与えてもらった。これは癌細胞さんのお陰だ。癌細胞さんありがとう」と、本当に心から手を合わせるようになっていきました。

すると不思議なことが起こりました。癌細胞が急速に消えていったのです。

医者が言ってましたが、体の中の免疫構造としては、喜びを感じ、幸せを感じ、さらにその心が感謝というところに至ると、免疫力が猛烈に強くなって、稀にこういうことが起こるのだと。彼は癌より奇跡的に回復して、元気に会社に行けるようになっています。
☆「気に入らない」と戦うのではなく、受け容れ感謝することによって心も体も楽になる。

「委ねる生き方」 2007.2.17[Sat]
昨日の話を聞いて、「そんなに簡単に受け容れれるわけがないじゃないか!」と怒る人がいるかもしれません。

受け容れなさい。そうする「べき」だ。という正論を展開しようとはさらさら思ってはいません。
お釈迦様は、受け容れることで一番得をするのは、一番楽になるのは、受け容れた本人なのだと教えてくれているのです。

だから「こうするべきだ」「ああするべきだ」なんてお釈迦様は経典の中でこれっぽっちもおっしゃってません。

悩み苦しみが多い人は、実は自分の強い思いが沢山あり、それを思いどおりにしないと気がすまない。

思い通りにならなければ嫌だと思う「思い」がたくさんあると苦しみ悩む。そういう宇宙の構造や事実にお釈迦様は気づいてしまったので、一般の人達にもその真実を伝えてくれたのです。

悩み、苦しみが多い人は、「思い」が強い、あるいは「思い」をたくさん持っている人にほかなりません。

お釈迦様はこうもおっしゃいます。

「宇宙に、地球に、すべてを委ねている人、自分の思いや我がままをほとんど言わないで、静かに穏やかに淡々と仕事をしたり、生活をしている人ほど、悩みや苦しみは少ない」と。

実際に、ほとんど悩みも無く、苦しみもなく、いつも笑顔で静かに穏やかに楽しく生きている人を沢山知っています。

そういう人ほど、ほとんどの人が「強い思い」をもっていません。

ですから、何かを頼まれたら「分かりました」と素直に行動に移すし、「これはこうやるんだよ」と教えられたら「なるほど」と素直に受け容れます。
相手に過度の期待をもってないので、何かあっても落胆がない。また思いが強くないと、相手を自分の思い通りにコントロールしようとしませんから相手も自分も楽です。

ですから、なんでも物事が引っ掛からずにスムーズに流れていくのです。

「私は」「私が」、思いどおりにしようという心が著しく少ない人ほど、楽にスムーズに生きていけるように思えます。

☆悩み苦しみが多い人ほど自分の思いが沢山あって強い。「まっいいか」でいきましょう。

「最高の受け容れは感謝」 (2007.2.16[Fri])
社会教育行政にいた時、よく「自分の子どもが不登校になってしまった。どうしたらいいのか」という相談を受けました。
親がああだこうだと悩んでいる以上、子どもの不登校は直りません。これは引きこもりでもそうです。

結局、不登校になった子どもを受け容れれば、受け容れた瞬間に、その問題は何も生じなくなってしまいます。

問題が解決してしまうというよりは、問題そのものがなかったということに気がつきます。「問題だ、問題だ」と言っていた自分の問題であって、もともと不登校そのものが問題なのでなくて、それを「問題だ、問題だ」と言ってる自分の心の問題として、それが悩みや苦しみになっているわけです。

子どもが不登校になった、学校に行かなくなった。ただそれを「そういうこともあるだろう」と淡々とした事実として受け容れた瞬間に、子どもにとっても自分にとっても、何の悩みも苦しみもなくなってしまいます。
わがままな子が、不登校や心身症、拒食症になるのではありません。マイペースにできず、ひたすら人に合わせようとして、無理を続けてきたから心身共に疲れているのです。

そんなことを知らない教師や親は「頑張って学校に行きなさい」と無理矢理強制して行かそうとします。そしてある日ストレスがピークになってあっけなく自殺してしまいます。そういう事件が全国で起こってるのに、未だ「頑張って行きなさい」と子どもに鞭を打ってるなんておかしいのです。

子どもの問題は子どもに解決させる。子どもの問題を親や大人のほうに取ってしまわないことです。子どもに任せると、一時は、悩んだり苦しんだりうまくいかなくなったりします。しかし、しだいに、自分で頑張ろうという意欲をもち始めるのです。

ただ親はじっと子どもを信頼して、「大丈夫私がいるんだから」と見守ること。この「大丈夫私がいるんだから」という見守る行為が、その子に愛となって届いてその子自身の自己評価、安心感覚につながっていくのです。
親が子どもを思いどおりにしようとしないこと。それはイコール、その目の前の現象を受け容れることでもあります。

お釈迦様が伝えたかったことは、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことも、そのまま受け容れる。そうすると悩みや苦しみから解放されていきますよ、ということでした。
病気になったら病気をしたでよし。死ぬようになったら死ぬようになったでよし。愛している人と別れなければならなくなったらそれもよし。それについての評価・評論をしない。感想をいちいち言わない。
「ああそうなったか」でおしまい。それが自分にとって一番楽な道なのです。
☆目の前の現象を「ああそうなったか」と受け容れることが自分にとって一番楽な道。

「今、幸せの中にいる」 (2007.2.15[Thu])
「幸せ」とは「何かを得る」とか「欲しいと思っていたものを手に入れる」ことではなく、「今の自分が幸せの中にいること、幸せの中に存在していること」を知ることです。

欲しいものを得たいとか、今以上の何かを得たいなど、自分以外の外に求めるものがあり、それを求めて得られたら、「幸せ」を感じるならば、「それが幸せだ」なんて思い込んでいたら、人生は実に苦悩に満ちたものでしかないでしょうね。

思いどおりに得られるものなど、ほとんどないからです。

じゃあ、理想を掲げて商売や仕事をやる意味なんかないじゃないかという人もいます。

この世に生を受けた目的とは、いかにあなたが喜ばれる存在になるかということです。そして、喜ばれる存在になるということはすなわち、自分が体を使って汗を流していると周りを楽にするということです。

周りのことを「はた」と言いますが、「はた」を「らくにする」というのが「働く」と言う意味ですし、それが仕事や商売をする意義なのです。

ちなみに、周りの人に迷惑をかけることを、「はた」に迷惑をかけるというので、「はた迷惑」という言葉があるわけです。「はた迷惑」の反対語が「働く」です。

また「仕事」とは「事」に「お仕えする」と書きます。何のことにお仕えするかというと、「喜ばれること」に「お仕えする」ことなのです。

だから仕事というのは、あなたが今,目の前でやっていることを通して喜ばれる存在になること。頼まれごと、喜ばれることに我が身をお仕えすることが「仕事」ということです。

ただ自分の力で仕事や商売をやっていると思っている人は、必ずどこかでひっくり返されます。神様仏様、「お陰様」は、驕り、高ぶり、自惚れ、傲慢な人が大嫌いみたいです。この方たちが大好きなのは「謙虚さ」というものです。

結局、対人間関係も、仕事をさせてもらっているのも一緒。全部、自分がやっているのではなくて、「お陰様」でさせていただいていることがわかっていくと、「幸せ」とは、本当に「仕合わせ」ということなのだということが、次第に分かってきます。

☆この世に生を受けた目的とは、仕事を通していかにあなたが喜ばれる存在になるかということです

「受け容れる」 (2007.2.14[Wed])
お釈迦様のエピーソードです。
40歳を過ぎてやっと子どもが授かった女性が、その子ども三日で死なせてしまいました。女性は半狂乱になって、お釈迦さんのもとにその子どもを抱いて、訴えにやってきます。

「お釈迦様、あなたは神通力がある方とお聞きしました。私は待望の子どもがやっと授かったのです。この子どもをなんとか生き返らせて下さい。どうかお願いです。あなたの力でこの子どもを生き返らせて下さい。お願いです!」

お釈迦様は、「分かりました。生き返らせてあげましょう。ただし、この集落を全部回って、死者を出したことのない家があれば、その家からからし種をもらってきなさい。そのからし種さえあれば、その子は生き返ります」と言われました。

女性は喜んで、「分かりました。すぐに行ってきます」と言って、転がるように三日三晩集落を回りました。
そして、「お釈迦様、私が心得違いをしておりました。よく分かりました」と静かに去っていったそうです。

お釈迦様は教え諭したりはしませんでした。ただ、「生き返らせてあげる」と言ったのです。そして、「それには条件がある。そのために死者を出したことのない家から、あるものを貰ってきなさい」と言いました。

そして彼女はその集落数百軒を全部回ったのです。そして、死者を出したことのない家が一軒もなかったということに気づきました。
自分の子どもの死をそれほど悲しんでいた彼女は、どこの家にも死者が出たということに対しては悲しまなかったのです。お釈迦様はそれを伝えたかったのです。

どこの家にも同じことが起きている。あなたは自分の子どもだけを悲しんでつらい思いをしていると思っているが、実はどこの家にも同じことが起きているのです。同じように人の死を悲しむことができないのであれば、自分の子どものことについてあまりにも騒ぎまくって、「つらい、つらい」と言うのはやめたほうがいい、そう釈迦様は伝えたかったのです。

どこの家からも死者が出ていることを知った女性は、そこで初めて「ハッ」と目が覚めたに違いありません。
自分だけのことではなかった。この子の死を受け容れることが、自分にとって楽であり、当たり前のことなのだと気づいたのです。

悩みや苦しみとは、「強い思い」を持っていて、その思い通りにならないことを、思い通りにしようと思うこと。悩み苦しみは、素直に受け容れた瞬間から消滅します。事実をいかに受け容れるか、その一言につきるのです。

☆「そういうことなんだ」と、ありのままの現実を素直に受け容れた瞬間から、悩み・苦し みは消えていきます。

「幸せの本質は温かさである」 (2007.2.13[Tue])
「しあわせ」の語源は「為し合わせ」。これが「仕合わせ」です。
つまりお互いににしてあげることが、「幸せ」の語源であり、本質です。

「仕合わせ」とは温かさを双方で与え合うということです。

「正しいことを言えば、分かってもらえる」とか「これは常識的なことだから」と考えたりするものですが、人はいつも「正しいこと」を受け入れるのではなくて、「温かいもの」を受け入れるのです。

人間関係が、柔らかく温かいものであれば、問題が起こっても必ずクリアされていきますが、その人との関係がうまく形成されていなければ、いくら正しいことを主張しても、相手は聞き入れてくれません。

人間は基本的には温かさが大好きです。あなたが嫌な顔をせず、気持ち良くやっていれば、頼んだ人の心に「借り」(やってあげた人にとっては「貸し」)ができます。その「借り」は目に見えないものですし、数字にも出てきません。

だけど、イライラしたり、とげとげしい態度をとらずに、快くやってあげると、どんな人でも、それが「借り」になっていきます。

人間関係を「貸し」「借り」でとらえるのはイヤだという人も、当然いますよね。僕は「そう考えるべきだ」と言っているのではなくて、「そう考えたらイライラしなくなりますよ」という提案をしているわけです。

だけど世間はそう甘くないですよね。冷たい人や言葉も往来しています。

実は温かい言葉や環境が100lだったら、その人は成長しません。冷たい言葉や環境100lでも、やはり駄目になります。では、最も確実に人を成長、向上させるのは・・。

それは冷たい言葉や環境20l、温かい言葉や環境80l、つまり2・8の法則が最も人間を向上させる。

ですから、人生は常に温かい側の人間が80l(プラス発想のできない人は20〜50l)、冷たい側の人20l(プラス発想のできない人は50〜80l)です。そのように自分で
設計して、それぞれの人にお願いし、そういう役を引き受けてもらっているわけです。

100lの人に好かれようとするから辛くなるわけです。20l(プラス発想ができない人は50〜80l)は批判者だ、と思うと人生が楽になります。

☆人間関係が、柔らかく温かいものであれば、問題は必ずクリアされていく。

「心オープンにいられる人間関係って楽ですよ」 (2007.2.12[Mon])
あなたは、職場の同僚や知人に向かって本音を言うとどうなるか心配したことがないでしょうか?あなたが相手の意見に反論したら、相手は怒るだろうか?

自己主張を控えるように家庭でしつけられた人は、「こんなことを言うと相手は不愉快になるのでは」と思い込んでしまいます。

仲間外れになるのを恐れるあまり、本音とは裏腹に同意しているふりをしたりもしています。仲良くやっていくことを優先させて自分を抑圧していくとどうなるか?自分の正直な気持ちを犠牲にして、自分の個性を否定してしまう結果、さらに自己評価が下がっていくのです。
このことをよく覚えていてほしいのですが、本当の自分ではないことを要求する人間関係は、ウソの人間関係なんです。
よい人間関係は、心オープンにしても自分らしさを尊重してくれます。あなたは自分をごまかす必要を感じないから、自分にも相手にも正直であり続けられて楽なのです。

もし自分の感情や意見を押さえて別人のように振る舞うことが習慣になっているのなら、とっととそういう自分を捨てて、もっと心オープンに生きることをスタートさせること。
そのことによって、友人や同僚が腹を立てるようなら、今までの人間関係はウソであったわけです。

それと、もっと突っ込んで聞きたいのですが、あなたが家族といるとき、仕事をしているとき、友人といるとき、さまざまな人物に変わっているとしたら、それはまずいのです。

人に併せて自分を変えていると、どれが本当の自分なのか潜在意識が迷っていくからです。その結果、精神が擦り減り、ストレスが溜まって疲れ果てるだけだからです。

場面や相手によっては、時には自分を演じることも必要なこともあります。ただ理想的な環境とは、自分が自分らしくあることができる環境です。これは自己中的な自分ではなくです。

NCという職場はそれが可能な家庭的な職場です。個性はバラバラだけど、神様仏様のお心を中心として同じ方向に向かって進む仲間がお互いの個性や特性を認め合いながら和することのできる職場です。

当然そのためには全体のルールや身につけなくてはいけない躾もあります。ただ、そういうものは自分がより自分らしく生きられるための自身の言動のバランス修正なのです。エゴまる出しで生きることが自分らしいということではありません。

本当の自分らしさとは、「私には存在価値がある」「私は生きてる価値がある」と思える自己評価を持ち、ありのままの自分を正直に出して生きていけることなのです。

☆自己評価を高め正直でありのままの自分で生きられる人間関係をつくろう。

「人を変えようとすれば相手の長所を伝えたらいい」 2007.2.11[Sun]
僕たちは相手を変えようとすることがありますが、大抵の場合、あまりいい結果は得れません。その原因は、相手にとって励みにならないことを指摘したり与えたりするからなんです。

相手を変えようと思えば、次のような事を心掛ければいいのです。

とにかく相手の長所について言ってあげればあげるほど、その長所は伸びていきます。相手の長所を認め、それを軽いタッチで伝えることによって、あなたは相手にその長所を意識させることができます。

相手に対して褒めて、認めて、感謝する。この方法は人がなによりもその人らしく長所が伸びていくやり方です。

あなたから認められた相手は、「自分にもいいところがあるんだ」と気持ちよくなり、あなたに好意を抱きます。人はだれでも自分のことをよく思いたがるから、褒めて、認めて、感謝されればされるほど、その人の気持ちに応えようとしていくのです。

こういうポジティブな方法によって、他人を変えることはできます。

それとあなたにちょっと聞いてみたいのですが、あなたは職場の周りの人たちへ関心を向けていますか。

あなたは周りの人によく思ってほしいですよね。もしそうなら、周りの人たちに関心を向けることです。

マザーテレサが「愛の反対は憎しみではない、無関心である」と言ってますが、この言葉は真理ですね。まったく相手に関心がないということは、愛を抱いていないってことですから。

だから周りの人に関心を持つことを始めてみましょう。そういった習慣をつけると、

@相手はあなたが関心を持ってくれたことに感謝します。

A相手はあなたに大切にしてもらったと感じ、あなたに好感を抱きます。

Bより気持ち良い職場が生まれます。

☆相手の長所を褒めて、認めて、感謝することによって、お互いの利益を得る。またどんなに忙しくても相手の顔を見て、言ってることに集中してあげると、今よりもよい人間関係を築ける。

「笑う門には福来るはほんと」 2007.2.10[Sat]
よく僕は「深刻になるな、真剣になったらうまくいくぞ」と周りの部下たちに伝えています。
僕たちは人生をあまりにも深刻に考える傾向があります。

すでに起こった悪いことや、これから起こるかもしれない悪いことばかりについて考えてしまうため、「仕事も人生も大変なんだ」と思い込んでしまってるのです。
当然これはその人の自己評価の低さに原因があります。

たしかに、時には深刻な事態に直面することもあります。仕事でも考えられないようなクレームもあります。しかし、それを除けば人生は途方もなく面白い。

あなたの中にはいつも安心の「本当のあなた」が存在しています。それはいつも一定で、愛と歓びと親切心が絶えずそこから湧き上がってくる心です。

一方、エゴは「うわべのあなた」です。それは一時的な感情に翻弄され、不満を感じる原因になります。
エゴは、大変不快ないくつかの性癖で成り立っています。プライドやねたみ、心配、怒り、嫉妬、不平不満、強欲、恐怖心、深刻など、マイナスのエネルギーを発するすべての感情です。

本当のあなたは冷静なのに、エゴは相対的な生き方を好みますから、すぐに腹を立てます。本当のあなたは落ち着いているのに、エゴは無性に心配を誘導します。本当のあなたは満足しているのに、エゴはもっと多くのものを要求しようとします。エゴは実にしたたかで、やっかいです。
そのエゴから解放されるのは、一番笑いがいいのです。

 よく昔から「笑う門には福来る」という諺がありますが、あれは本当ですね。

笑うと体内でエンドルフィンが分泌され、それが若返りに素晴らしい作用をおよぼします。
それに加えて、笑いは疲れた心をいやし、精神的エネルギーを再び充電し、ストレスと緊張をほぐしてくれます。

男性幹部三人で共同生活をしている子安庵では、やまっち(会長)をしょっちゅうからかっては、朝から大笑いをしています。そのお陰で、お互い一日をテンションを上げてスタートを切ることができます。

笑いは、人間だけに与えられた才能です。

この笑顔を最大限に生かしましょう。

笑う機会を増やして心身の健康を促進するためには、さまざまな状況で面白い要素を見つけることを日頃から心掛ければいいですね。

「内なる批判的なエゴに反論する」 (2007.2.9[Fri])
あなたは自分の心の中にいる批判的なエゴに気づいたことがあるでしょうか。

今までそんなことは考えたことがないかもしれませんが、内なるエゴの批判者は「お前はどうせ無理だ」「悪いヤツだ」「周囲の人たちより劣っている」といった理由をあげて、「どうせ、やっても無駄だ」と心の中でささやきかけてきます。

もう分かりますよね。潜在意識の現状維持メカニズムが働いているのです。

内なるエゴの批判者のささやきは、あなたが物心ついて以来、親や教師などの権威者から言われ続けてきたネガティブな意見の寄せ集めです。

僕たちが新しいことをして生活や精神の質を向上させようとすると、内なるエゴの批判者が口出ししてきて、そうはさせまいとしゃしゃり出てきます。

内なるエゴの批判者は僕たちの能力をけなし、自尊心を台なしにしようとやっきになります。あなたが自分の能力を高めるのをやめようという気になるのは、内なるエゴの批判者がそのように説得してくるからです。

では、それに対してどう対処していったらいいのでしょうか。

まず、内なるエゴの批判者の存在、つまり潜在意識の現状維持メカニズムがたくみにストップをかけていることに気づくことです。そうすることによってその影響力を弱めることができます。

次に、内なるエゴの批判者に反論することです。内なるエゴの批判者の声に耳を傾け、それを書き留めたら、すぐに「その手にはのらない」とそれに対する反論を書きましょう。つまりエゴのパターンを熟知して、今度、内なるエゴの批判者が何かを語りかけたら、すぐに反論するのです。

内なるエゴの批判者、つまり潜在意識の現状維持メカニズムは「過去」と「失敗」にこだわりますが、あなたは「今」と「成功」に意識を向けて行動していくことなのです。

内なるエゴの批判者の声に耳を傾けないようにしましょう。もし傾けたとしても、「もういいよ、私は幸せになるための行動を開始しているんだから」とはっきり宣言することです。 それと大切なのは、「あんたのお陰で仏さんの導きに出会えた。助かったよ」と内なるエゴの批判者に感謝することです。内なるエゴの批判者さえ、本当は仏さんの心に出会うための方便なんですけどね。

☆自分の心の中の批判者のネガティブな意見に反論し、影響力を弱めよう。次に進めば、批 判者のネガティブな意見を聞きながら「あんたのお陰で仏さんのあったかい心に出会えた よ」と批判者に感謝さえしていこう。

「気持ち良いプラスのことを常にイメージする」 (2007.2.8[Thu])
人それぞれ自分の心の中でいつも上映している「映画」について意識することはあまりありません。
あまりにも慣れ親しんでいるので、それについて考えることはめったにないからです。

僕たちの「心の映画館」には、気持ち良いワクワクするようなプラスの映画が揃っています。
楽しい活動をしたときの映画、努力して成功したときの映画、知り合いと楽しく過ごしたときの映画、人に感謝されたり感謝したときの映画、などなど。それらはどれも気持ち良く、楽しく、幸せな映画ばかりです。

逆に長年のうちには、人は誰でも悲しく辛い出来事にも遭遇します。場合によっては心に深い傷跡を残すこともあります。
そのことによって、悲し記憶や辛い記憶を何度も何度も映画として上映し、結局は自分を痛め付けている不幸な映画さえあります。

あなたは日ごろ、どちらのタイプの映画を見ているのだろか?
一般に、僕たちは心の中で、自分についての考え方にマッチした映画を上映しています。

この世に不必要な人など誰一人いません。DNAが誰一人同じでないように、その人なりの役割があってこの世に生まれてこれたのです。

過去様々な悲しく辛い出来事があったからこそ、こういった真実の言葉が心に染み込んでいけるのです。人は悲しく辛いくて流した涙の数だけ、人に優しくなれると言います。すべての過去の偶然なんてありません。すべては人間が人となるために必然的に容易された映画であったのです。

今あなたが人生を前向きに生きようとすれば、それなりの楽しい映画を上映してくれます。 逆に、「自分はツイてない価値のない人間だ」と思っているのなら、気の滅入るような映画を上映してくれます。

あなたはどんな映画を上映したいのでしょうか。同じ上映するのなら、楽しい映画の方がはるから得です。楽しい映画をいつも上映したいなら、二つのことを実行しましょう。

@「自分は存在価値がある」「自分は生きていることに価値がある」と自分に「ありがとう」 の感謝の言葉を7回言い、自己評価を高めよう。そうすれば、ネガティブな映画を気持ち 良いプラスの映画と取り替えることができる。

A自分が不幸な映画を見ていることに気づいたら、すぐに気持ち良いプラスの幸せな映画に 切り替えましょう。誰でも幸せな映画の在庫を心の中に持っているはずです。

☆私たちは心の中で映画を上映している。どうせなら、楽しい映画を上映すれば、いつも前 向きな気持ちでいることができる。

「自分の発している言葉に意識を向けよう」 (2007.2.7[Wed])
人間は自分の発してる言葉で自分の人生を創り出しています。これははっきりしています。また自分の周囲の環境や、自分が立たされた状況はすべて自分の発した言葉によって形成されていきます。

だから、朝から晩まで嬉しい、楽しい、幸せ、ありがとう、ついてる、ラッキーと言い続けると、こういう肯定的な言葉しか言いたくなくなる人生に囲まれます。

逆に、嫌だ、嫌いだ、だけど、でも、しかし、疲れた、面白くない、楽しくない、意味がないという否定的な恨みつらみ言葉を発すると、その言葉を言いたくなるような現象がどんどん起こってきます。

僕は自分や周りの人達の身の回りに起こる現象を知れば知るほど、この言葉の法則は正しいと納得せざるを得ません。

もっと皆さんは人生の損得勘定をはっきり自覚した方がいい。

損得勘定が完全に頭に入ってしまうと、人間は声をあらげたりイライラしなくなります。声をあらげたりイライラした結果、その人には益々声をあらげたりイライラするような現象を引き寄せます。
また、肉体的に言うと毒素を出して、五臓六腑をどんどん痛めつけます。だれが一番損をするかというと、その言葉を発した本人なのですから、むちゃくちゃ損です。

こういう実験があります。一升瓶に普通の心理状態で息を吹き込み、そこにハエを一匹入れると40分ぐらいで窒息死します。ところが、激怒した状態の息を吹き入れて同じ実験をすると、中のハエは三分ぐらいで死んでしまいます。毒死です。人間が怒ったときは自分で気づかないだけで、毒気を吐いているのです。

僕たちは体調が悪いとき、「どうして?」と思うのですが、実はいつの間にか不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句という否定的な感情が肉体を蝕んでいるらしいのです。

知り合いの外科医が言ってましたが、患者の家庭環境を分析した結果、怒鳴り合ってる家庭環境で生活している人と、穏やかな言葉が飛び交う家庭環境で生活している人とでは、明らかに前者の方が病気になったり事故にあったりする確立が圧倒的に高いということでした。
また、否定的な言葉を使うと人間の体内の70lの水の細胞を破壊し、それが病気を招く原因となるのです。言葉の持つ力って良いも悪いも物凄いパワーがあるのです。

肉体だけについてだけではありません。仕事の生産性や品質も同じです。だから言葉の損得勘定をよく認識して、意識して肯定的な言葉を使っていきましょう。

☆言葉の損得勘定をしっかり知った上で家庭でも仕事場でも肯定的な言葉を意識して発して いく。

「人生は楽しいものだ」と自己暗示をかける (2007.2.6[Tue])
子どもの頃から多くの人たちは「人生は苦しいものだ」「仕事は辛いものだ」と教えられて育っていきます。

だから、もし人生が安楽なら申し訳なく思い、人生を苦しくするために努力すべきだと考えたりします。これは当然、潜在意識に「人生は苦しいもの」「仕事とは辛いもの」とインプットされていますから無意識に起こってきてしまうのです。

だけどこの考え方は、「人生は苦であり、見返りとして死後に安楽な人生が約束されている」という考え方と結び付いてます。

多くの人たちに、僕たちは「人生は苦しいものだ」という考え方を不幸を背負ったような人たちから教えらます。それも、絶対人生は苦しまなければならないと一方的にさえ思えてしまうぐらいです。

また多くの人たちは「人生についてのネガティブな考え方を伝える義務を私は果たしてる」と当然のように考えています。

たけど、これはその人なりの自己評価の低い人生観であり、決して真実ではありません。

真実とは、人生は楽しいと思って肯定的に感謝して生きれば楽しい人や事象が引き寄せられ、人生は苦しく辛いと否定的に生きれば苦しく辛い人やそれなりのマイナス事象が引き寄せられるということです。

これを因果の法則と言います。それなりの原因があるからそれなりの結果が起こるということなのです。

たしかに人生には困難な時期もありますよ。ただ生涯にわたってそういう状態が永遠に続くわけではないです。

人生の大部分は自分がつくるものです。肯定的に考え、肯定的にとらえ、肯定的に創造していくのも自分ですが、否定的に考え、否定的にとらえ、否定的に破壊していくのも自分なのです。

もし「人生は苦しいもの」「仕事は辛いもの」と思うなら、あなたはその「事実」を受け入れ、結局、あなたの人生は間違いなくあなたの予想通りに苦しいものとなります。絶対に。

しかし、「人生は楽しいものだ」と感謝していくのならどうでしょうか。まだ楽しくなくても、あなたは人生を楽しくするための努力をしていくはずです。どんなに障害に出合ったとしても、それを乗り越える方法を見つけだしていくはずです。

結局、あなたはあなたの人生を自らが選んでる。人生は考え方次第でこのうえなく楽しくなってしまうのです。

☆人生は考え方次第で楽しいものにできます。苦しいものと考える必要はまったくありません。

「心配は自己暗示」 (2007.2.5[Mon])
物凄く心配性の人っていますよね。

心配してるとき、僕たちは「悪いことが起こる」と予測し、無意識に「それについて十分に心配すれば、そういう事態を避けたり被害を軽くすることができる」と思い込んでるんです。

しかし、心配は人間の本能ではなく、一種の自己暗示なのです。そして潜在意識はそのイメージ化された心配をなんとか現実化させようと働きだすのです。

うまくいかない可能性のあることを、何度も何度も心の中で繰り返して自己暗示をかけていって何のメリットがあるのでしょうか。

心配しても何の恩恵もツキもやってこないのに、なぜ心配し続ける必要があるのでしょうか。すべての心配癖の原因は、あなたが潜在意識に何度も何度も自己暗示をかけてきたことにあるのです。

この事実を知ると、心配って意味ないと思いませんか。

だから今日から心配をやめたるためには、

1,心配は常に将来のことに関することだから、現在に意識を集中して、今目の前にあることに全力を尽くす。

2,自分が心配していることに気づいたら、「大丈夫、安心すればうまくいく」と何度も自己暗示をかける。

3,「自分はツイてる」と何度も自己暗示をかける。

こういったプラスの癖づけをするといいです。

また問題解決のためには心配や不安を取り除くために頭に浮かぶことを書き出してみるのもいいです。
書くことによって自然と問題が整理されて、心の中にたまっているネガティブな感情を吐き出したり脳が整理されるのに役に立ちます。ただし、書き終えたら能動的に行動しなくては意味がありません。

とにかく心配ではなく、安心の一番は仏さんと共に生きてる安心感を潜在意識に刻み込んでおくことですね。

☆心配は何の役にも立たないばかりか、かえって自分にマイナスの暗示を与えてしまう。「安心すれ ばうまくいく」「大丈夫仏さんと一緒だから」「私はついてるからうまくいく」とにかく心配だと思えば、プラスの自己暗示を与えてやろう。

「悪口は言わない」 2007.2.4[Sun]
あなたの周囲には、他人の批判をしたり悪口を言ったりするのを楽しんでいる人はいないでしょうか?

たいてい、そういう人っています。

 そういう人たちはそれをさまざまな理由でしているように見えます。相手を驚かすのが目的の人もいれば、楽しませたり笑わせたりするのが目的の人もいます。

本人はまったく自覚していないのですが、この種の言動は、「私は自己評価が低いんです。自己否定型の不安な人間なんです」と周りに公表しているようなものなのです。

こういう人たちは知らず知らずのうちに、「他人がどれだけ悪いかを指摘すれば、自分が相対的によく見える」と考えてますね。

だから、他人の欠点や弱点を捜し求めようとする度合いによって、その人の自信のなさを暴露してしまうのです。

井戸端会議なんて最たる例で、他人の批判やご近所の悪口を言ったりすると、そうしている間だけは他人の欠点に意識を向けることによって自分の不安をやわらげることになるかもしれない。自分のことをさて置いて、とにかく人の批判や悪口を言うのですから。

でも、その効果はあまり長くは続きません。批判や悪口が終われば、自分の自己評価はとたんに元のレベルにダウンしてしまうからです。
だからまた自分の自己評価を高めるために人の批判や悪口を言ってしまう。繰り返しなんです。

他人の批判をしたり悪口を言ったりするのは、自己評価の低さに原因があります。

この悪口癖、批評批判癖を直すためには自己評価を高める以外にありません。

また、人をねたんだりするのも同じですね。ねたみにとらわれると、人は自分がすでにどれほど多くのものを持っているのかに気づかず、より多くのものを手に入れようとします。また、自分が実際には恵まれているのにもかかわらず、「自分は恵まれてない」と思い込むようになっていきます。

これらも全部自己評価の低さから生まれます。

僕は発展途上国に行くことによって、この地球上の多くの人は、物やお金にはそれほど恵まれていなくても、毎日食べていけるだけで「自分は幸せなんだ」と感じている人がいっぱいいることに気づきました。

その人にはその人なりに必要なものはすべて与えられていることに気づくことですね。
☆人の悪口を言うのは自己評価が低いから。自己評価を高めるためには、私にとって必要なものはすべて与えられているという感謝の心に目覚めること。

「自分を人と比較しない」 2007.2.3[Sat]
小さいころに他の子どもと比較されずに育った人はまずいません。

実際、僕たちがよくなることを願っていた人たちは、僕たちを他の優れた人と比較してきました。

比較は、親や教師や監督や上司といった権威者が好んで使う競争意欲を駆り立てる方法の一つです。

どのような特徴を比較するときでも、模範者がいつも準備され、「あの子はお前より勉強ができる」「お前より素直だ」というセリフが使われてきました。

権威者の意図は僕たちを向上進化させることですが、このような比較の仕方は、人の心に相対的な価値観を増えつけていき、ネガティブな思考を増長させていきます。

まず、「自分は駄目な人間だ」と自己否定的な気分にさせます。

次に、よいときにはよいのですが、何かあると自分の能力に疑問を感じるようになり、劣等感の原因になったりします。

この二つの感情のために、自己評価が育たなくなってしまうのです。

さらに悪いことに、権威者にこのようなやり方で躾られた結果、比較する習慣が身についてしまうのです。

その結果、僕たちはいつも他人と比較してしまう癖が身についています。

服装や仕事、収入、家族、車、能力、家柄、地位、名誉など、ありとあらゆる特徴について、僕たちは自分を周囲の人々と比べては一喜一憂しています。

自分より優れていない人と比較すると気分がよくなります。その反対に、自分より優れている人と比較すると気分が悪くなります。

 これで感情のバランスがとれるのかというと、そうではありません。

自己評価とは「私は存在価値がある」「私は生きていることに意味がある」という、ナンバーワンじゃないオンリーワン宣言なのです。

自分を他の人たちと比較する習慣をやめましょう。

他のあらゆる悪い習慣と同じで、「私は私」「あなたはあなた」、と比較する習慣もやめることができるのですから。

☆比較はみじめな感情を呼びます。自分を人と比較する習慣はもうやめましょう。

「自分は恵まれていると感謝しよう」 (2007.2.2[Fri])
自分の欲しいものが手にはいらない、自分の都合が満たされない時に人は不平や不満を強く感じるものです。「人生は不公平だ」と思ったりもします。

そして周囲を見回すと、自分のもっていないものをもっている人たちがいることに気づき、「自分は損をしてる」なんて腹を立てたりもします。

実はこの不平不満を解消するためには感謝の気持ちが必要です。

まずゆったり座って自分の周りを見渡してみて下さい。

ほとんどの人はテレビもある、エアコンもある、自家用車もある、近くにはコンビニも、ファミレスもある。便利で素晴らしいものに囲まれて暮らしていますよね。

僕はタイやビルマやネパールや中国に行ったことがあるのでよく分かるのですが、日本とは生活レベルが全然違います。

 日本人は、便利で実に快適な生活をしていてます。ただその生活にすっかり慣れてしまっているので、取り替える必要がない限り、そのことについて真剣に考えないのです。

ちょっと静かに心を落ち着けて、心の中で感謝すべきことをリストアップしてみましょう。

家庭、家族、友人、衣類、食料、健康、仕事から初めて、暮らしを便利にしてくれるものについて一つずつ考えてみましょう。そして、考えれば考えるほど、自分はあらゆるものに恵まれていることに気づいていきます。

そして北朝鮮の状態、発展途上国の国々との生活レベルの格差を感じます。人権感覚の違いを感じます。すると感謝するしかないということが分かってきます。

感謝の対象は、必ずも有形のものとは限りません。どこにいようと、周囲を見渡せば感謝の対象が見つかります。

早朝の星空、雄大な夕日、うららかな一日など、いくらでもあります。

感謝の気持ちを常に抱くことを心掛ければ、所有物の多い少ないに限らず、いかに自分が日本という美しい国、戦争のない国に生まれることができ、いかに恵まれた生活や仕事をさせてもらってるかが実感できるはずです。

☆自分の周囲の有形無形のものに目を向け、それらに恵まれていることに感謝すれば、人生への不平不 満は消えていきます。

「自分を大切にする」 (2007.2.1[Thu])
さて、夜寝る前の自分に対しての「ありがとう」スタートを切りましたか。
 今日は「自身の自己評価を高めるための心得」をお伝えしておきます。

1,たとえどんな大きなミスでも、自分のミスはすべて許しましょう。
   人はだれでもミスを犯すんです。
常にミスを回避できるのは完璧な人だけですが、完璧になった人はいまだかつていないんです。 おおよそ人は常に発展途上なんだって知っておくことです。
   僕たちにできるのは、ミスをバネにして自分を常に進化させることだけなんですから。

2,どんなことがあっても自分を責めないで下さい。
   他の人から責められたとしてもです。
   自分を責めることが癖になってしまうと、たとえ誰からも責められなくても、エゴが自分を批判してきます。
   それだけならいいんですが、この自己否定するエゴは必ず相手に向かっていきます。
   自己否定は必ず他者否定を生むんです。
   逆に自分を自己肯定できる人は他者肯定もできるんです。
だからどんなことがあっても自分を責めないこと。
   自分を否定しないこと。
   「ああこういうところがいけなかったんだ」と反省はしても、決して責めたり否定したりしてはいけません。

3,堂々と自分をアピールして下さい。
自分の特性や長所を上司や同僚に伝えて下さい。
「私はこういうことが得意で、こういうことなら凄くお役に立てると思います」と。
   僕たちは「自分をアピールしたり自分の技能について話したりすることは、自慢であり傲慢だ」と教えられて育ってきました。
   だから自己評価が育たないんです。
   自分を褒めて認めて感謝してやることが苦手なんです。
自分に向かうことは人に向かいますから、結局、相手を褒めて認めて感謝してやることも苦手なんです。
   ただそれは違います。
   自分の特性や長所を誰かが発見してくれることを期待してじっと待っているなら、誰にも発見されず死んでいくかもしれない。そうしたら後悔と自責で不成仏です。そうならないためにもっと
自分をアピールしましょう。

4,自分は仏さんに愛されてる「仏さんありがとう」の感謝を口癖にしましょう。
心臓が動き、呼吸ができる。生かされている、今生きていることができるということは、物凄く不思議なことなんです。
大きな目に見えない仏さんの愛の働きがあるからこそ、それが可能なんです。感謝に勝る能力なし。生かされていることに感謝しましょう。
☆自分のミスを許し、自分を責めず、自分をアピールし、「仏さんありがとう」と自分は仏さんに愛されていることに感謝していくと自己評価が高まっていきますよ。

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