「継続して努力する者が報われる」3/4(土)
仏教ではよく因縁ということを言いますが、
この因縁を別の言い方をしますと、自らが創った善悪は
縁によってリピート再生するということです。
ですから、、
良心に従って愛情心をもって良いことをしていれば、
これが因縁となり、良い意味の再生が起こるものです。
人生も仕事も原因を創れば、
結果が自然と生じるのがアタリマエの道理なのです。
因縁には、善悪の両方が有り、
悪い意味だけでは無いということです。
自分の良心が思う行為をすることは、
良い因縁を創ることに成ります。
自分自身で良い因縁を作らずに、
他人や神仏に依存ばかりしている人間は
何も変われ無いです。
一生懸命努力する者が報われるという意味でも、
因縁とは完全に公平な法則なのです。
目指せば
理想にはまだまだにしても
とりあえず安売りしなくても、
イベントしなくても、
誠実にやってる仕事の結果
ポッキーのクリーニング店も
新城くんのクリー二ング店も、
伸ちゃんの青果会社も
前年を上回る売り上げが達成できているのも
こういった公平の法則通りの結果が面白いぐらい
出ているということです。
これはその人の
人生においてもまったく同じことが言えます。
そして最近思うのは、
とにかく良いも悪いも結果が出て来るのが
以前の10倍ぐらいのスピードでとにかく面白いぐらい早い。
このことを知っておいた方がいいてですよ。
つまらんこと言ってたり
やってたりすると物凄いスピードで倍返しの
反作用がきますから。
今日の朝、
あの運動音痴の松山くんや幸ちゃんが
一生懸命腰掛の上がり降り100回頑張ってました。
幸っちゃんはノルマ終了すると
またまた「ええっ????やってるやん」
他のノルマを率先してこなしていました。
やれとも言ってないのに。
継続して努力する者は報われる、
本当に虚弱体質が元気になってくれました。
嬉しいね、そういう姿を見ることは。
思わず(笑)
・・・・・・・・・・・・
話は変わります。
昨日の夜、会社から20分のところにある
ドでかい木更津イオンモールの映画館で
遠藤周作の「沈黙」を観ました。
以下は「映画ぴあ」より転載
17世紀、江戸時代初期の江戸幕府によるキリシタン弾圧
を通して、主人公の若きキリスト教・宣教師ロドリゴ(アンド
リュー・ガーフィールド)の信仰に対する苛烈な葛藤と苦悩
を真正面から描いている。
若き宣教師、ロドリゴ、ガルペ(アダム・ドライヴァー)は日
本の長崎で布教活動をしていた師匠フェレイア(リーアム・
ニーソン)が棄教(転び)したという情報を入手し、真相を
確かめるため、キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる日本に潜
入する。
そこで、彼らは、日本信者たちの過酷な現状を目の当たり
にして、次第に信仰と救いの矛盾に苦悩していく。ついに
は、主人公は捕らわれの身になり、幕府の役人達(イッセ
ー尾形、浅野忠信)に棄教を迫られる。
そして、主人公の前で、キリシタンという理由だけで信者
達が無残に戮されていく。信仰によって何故信者は苦し
められるのか、それでも何故神は救いを与えないのか、
沈黙を続けるのか、という疑問が彼の心を苛んでいく。探
していた師匠フェレイアにも会えるが、師匠の心境の変化
に主人公の動揺は更に増していく。ついに、彼はある決断
をする・・・。
本作には二種類の弱者が登場する。棄教を拒む強い信
仰心を持った信仰強者と、棄教を繰り返す信仰弱者であ
る。本作は二つの物語で構成されている。一つ目は、主
人公が苦悩の末に行使する、”信仰を超越した信仰強者
の救済”を描いた主要物語である。二つ目のキーパーソン
は信仰弱者であるキチジロー(窪塚洋介)である。
彼は、形振り構わずに必死に生きている。棄教を繰り返し、
密告もするが、真剣に救いを求めている。主人公は当初
疎んでいた彼に次第に心を開き、彼の心情を理解するよ
うになる。ここに、”信仰心の強弱に関係なく、信仰弱者も
救済する”という弱者救済の原点というべき物語がある。
本作は、この二つの物語が織り成す、壮大な人間ドラマで
ある。
娯楽作品ではない。信仰を貫こうとする主人公への極限
の試練、激しい問題提起に圧倒され、立ち竦むしかない。
若き宣教師を演じる二人が、人間らしい喜怒哀楽を持った、
聖職者然としていない、普通の人間として描かれているの
で、素直に感情移入でき、主人公の心情と一体化できる。
主人公とともに、我々観客も、自分の価値観を根こそぎ揺
さぶられる。従来の洋画では、信仰は絶対であり、信者の
苦難は、神が与えた試練として片付けられてきたが、本作
では、主人公は沈黙を続ける神に救いを求め続ける。神
の存在を問うた、ベルイマン監督の“処女の泉”を思い出
した。宣教師という聖職にある主人公の決断は、あまりに
も残酷であり、彼は、何故ここまで苦悩しなければならな
いのかと思うと涙が溢れてくる。
ラスト近くまで、主人公の本心は分からないが、ラストシ
ーンで明かされる。鑑賞しながら、そうあって欲しいと思
い続けた通りの幕切れだった。救われた思いがした。
信者たちに加えられる拷問は凄まじく目を覆いたくなる
ほどであり、彼らの信仰心も揺らぎ、キチジローのような
棄教者、密告者も出るが、それでも、多くの信者は信仰
を捨てない。死ねば苦役や飢饉もないパラダイス(天国)
に行けると信じている。それだけ、当時の人々の日常は
過酷なものであり、信仰は、彼らの見出した唯一の光明
だったことが推察できる。
彼らは、罪人ではない。信仰の自由という扉を開こうとし
ただけである。本作のような自由を行使した者たちへの
弾圧は、洋の東西を問わない。戦後生まれの我々は、
生まれた時から、思想信条の自由など、様々な自由を当
然のように謳歌してきた。しかし、その自由を獲得するま
でには、本作のような過酷すぎる道程があったことを決
して忘れてはなるまい。 転載終了
正直言って、
観た後はキリシタンの信徒や宣教師たちに
対するあまりの迫害の惨さに、
いやぁ~~~~グッタリ疲れました。
これは真宗の鹿児島のかくれ念仏者にも
同じことが言えるのでしょう。
この「沈黙」のストーリーを観て感じたことは、
キリスト教であろうと、仏教であろうと、外なる神を一心に祈り、
神の恩寵や奇跡という明確な「形」で神を見出そうとする信徒や
宣教師たちの神は「沈黙」し、その神への思いは裏切られていく
ということ。
しかし、
じっと心を澄ませて、
自分の心を深く内観していくことによって、
神は見えない「沈黙」の中にこそ宿っているということ。
実はロザリオでも、踏み絵の聖母マリアでも、十字架でも、
祈りでもなく、神は常に自らと共にあるんだと
体感実感できれば、
その安心の実感こそが神の恩寵であり、
奇跡になりえる・・。
それが本当の純粋な信仰なのです。
これは仏もまったく一緒です。
イエズス会の宣教師たちが
信徒の拷問や処刑に葛藤し、
そうさせないためにキリスト教を棄教していき、
その後自らの葛藤の中で神を自分の内側に見いだせた。
方便の世界から真実の世界へ三願転入みたいな
信仰の深さに入っていったのです。
最後は仏教的な葬式で
荼毘に付された宣教師の手の中には
日本人の奥さんが守り刀と共に入れてくれた
小さな十字架が寄り添っていました。
どんなに自分の信仰を迫害され棄教させられても
宣教師の彼は神と共に生き、神と共に死んでいけた。
信仰の究極の姿がそこにはありました。
と同時に、ほんとうの信仰の姿が・・。
結局、
外に向かっての外在信仰って弱い。
いつもほんまに自分のことを救ってくれるのか?
っていう疑いや不安が晴れない。、
そうじゃなくて、
いつも自分とともにあるという内在信仰は人を強くする。
結局、他力とは仏力。その仏力が私を生かして
その仏力と共に私は生きているということだからね。
それが実感できると、世間や人の目を気にせず
とっても安心して強く生きていける。
すべての方便が必要なくなる。
だから素の自分、シンプルで感じて動く自分を
ストレートに生きていける。
ただ、そういったホンマのことを
スラスラ語らせるほどの軟な内容ではなく、
こんなんやったらたぶん私は気がくるってるかもしれない・・
と思うほどの騒然で過酷で残酷な歴史事実がそこにはありました。
たから観終わったらグッタリだったです。
夢にまで出てきましたからねぇ、
「パードレ(神父さん)という言葉」とキリシタンを惨殺していく
えげつない映像が・・。
だからいまの時代の日本に
生まれることができて大感謝です。
・・・・・・・・・・・・
明日は東京都内のウォータークリーニングのお仕事があるお蔭で、
東京国立博物館で開催されている「特別展 春日大社 千年の至宝」
と、日本橋高島屋で開催されている「生誕90年 加山又造展〜生命の煌めき」
に行ってきます。
※明日の仏婦彼岸法要はよろしくお願いします。
朝枝さんにくれぐれもよろしくお伝え下さい。
この因縁を別の言い方をしますと、自らが創った善悪は
縁によってリピート再生するということです。
ですから、、
良心に従って愛情心をもって良いことをしていれば、
これが因縁となり、良い意味の再生が起こるものです。
人生も仕事も原因を創れば、
結果が自然と生じるのがアタリマエの道理なのです。
因縁には、善悪の両方が有り、
悪い意味だけでは無いということです。
自分の良心が思う行為をすることは、
良い因縁を創ることに成ります。
自分自身で良い因縁を作らずに、
他人や神仏に依存ばかりしている人間は
何も変われ無いです。
一生懸命努力する者が報われるという意味でも、
因縁とは完全に公平な法則なのです。
目指せば
理想にはまだまだにしても
とりあえず安売りしなくても、
イベントしなくても、
誠実にやってる仕事の結果
ポッキーのクリーニング店も
新城くんのクリー二ング店も、
伸ちゃんの青果会社も
前年を上回る売り上げが達成できているのも
こういった公平の法則通りの結果が面白いぐらい
出ているということです。
これはその人の
人生においてもまったく同じことが言えます。
そして最近思うのは、
とにかく良いも悪いも結果が出て来るのが
以前の10倍ぐらいのスピードでとにかく面白いぐらい早い。
このことを知っておいた方がいいてですよ。
つまらんこと言ってたり
やってたりすると物凄いスピードで倍返しの
反作用がきますから。
今日の朝、
あの運動音痴の松山くんや幸ちゃんが
一生懸命腰掛の上がり降り100回頑張ってました。
幸っちゃんはノルマ終了すると
またまた「ええっ????やってるやん」
他のノルマを率先してこなしていました。
やれとも言ってないのに。
継続して努力する者は報われる、
本当に虚弱体質が元気になってくれました。
嬉しいね、そういう姿を見ることは。
思わず(笑)
・・・・・・・・・・・・
話は変わります。
昨日の夜、会社から20分のところにある
ドでかい木更津イオンモールの映画館で
遠藤周作の「沈黙」を観ました。
以下は「映画ぴあ」より転載
17世紀、江戸時代初期の江戸幕府によるキリシタン弾圧
を通して、主人公の若きキリスト教・宣教師ロドリゴ(アンド
リュー・ガーフィールド)の信仰に対する苛烈な葛藤と苦悩
を真正面から描いている。
若き宣教師、ロドリゴ、ガルペ(アダム・ドライヴァー)は日
本の長崎で布教活動をしていた師匠フェレイア(リーアム・
ニーソン)が棄教(転び)したという情報を入手し、真相を
確かめるため、キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる日本に潜
入する。
そこで、彼らは、日本信者たちの過酷な現状を目の当たり
にして、次第に信仰と救いの矛盾に苦悩していく。ついに
は、主人公は捕らわれの身になり、幕府の役人達(イッセ
ー尾形、浅野忠信)に棄教を迫られる。
そして、主人公の前で、キリシタンという理由だけで信者
達が無残に戮されていく。信仰によって何故信者は苦し
められるのか、それでも何故神は救いを与えないのか、
沈黙を続けるのか、という疑問が彼の心を苛んでいく。探
していた師匠フェレイアにも会えるが、師匠の心境の変化
に主人公の動揺は更に増していく。ついに、彼はある決断
をする・・・。
本作には二種類の弱者が登場する。棄教を拒む強い信
仰心を持った信仰強者と、棄教を繰り返す信仰弱者であ
る。本作は二つの物語で構成されている。一つ目は、主
人公が苦悩の末に行使する、”信仰を超越した信仰強者
の救済”を描いた主要物語である。二つ目のキーパーソン
は信仰弱者であるキチジロー(窪塚洋介)である。
彼は、形振り構わずに必死に生きている。棄教を繰り返し、
密告もするが、真剣に救いを求めている。主人公は当初
疎んでいた彼に次第に心を開き、彼の心情を理解するよ
うになる。ここに、”信仰心の強弱に関係なく、信仰弱者も
救済する”という弱者救済の原点というべき物語がある。
本作は、この二つの物語が織り成す、壮大な人間ドラマで
ある。
娯楽作品ではない。信仰を貫こうとする主人公への極限
の試練、激しい問題提起に圧倒され、立ち竦むしかない。
若き宣教師を演じる二人が、人間らしい喜怒哀楽を持った、
聖職者然としていない、普通の人間として描かれているの
で、素直に感情移入でき、主人公の心情と一体化できる。
主人公とともに、我々観客も、自分の価値観を根こそぎ揺
さぶられる。従来の洋画では、信仰は絶対であり、信者の
苦難は、神が与えた試練として片付けられてきたが、本作
では、主人公は沈黙を続ける神に救いを求め続ける。神
の存在を問うた、ベルイマン監督の“処女の泉”を思い出
した。宣教師という聖職にある主人公の決断は、あまりに
も残酷であり、彼は、何故ここまで苦悩しなければならな
いのかと思うと涙が溢れてくる。
ラスト近くまで、主人公の本心は分からないが、ラストシ
ーンで明かされる。鑑賞しながら、そうあって欲しいと思
い続けた通りの幕切れだった。救われた思いがした。
信者たちに加えられる拷問は凄まじく目を覆いたくなる
ほどであり、彼らの信仰心も揺らぎ、キチジローのような
棄教者、密告者も出るが、それでも、多くの信者は信仰
を捨てない。死ねば苦役や飢饉もないパラダイス(天国)
に行けると信じている。それだけ、当時の人々の日常は
過酷なものであり、信仰は、彼らの見出した唯一の光明
だったことが推察できる。
彼らは、罪人ではない。信仰の自由という扉を開こうとし
ただけである。本作のような自由を行使した者たちへの
弾圧は、洋の東西を問わない。戦後生まれの我々は、
生まれた時から、思想信条の自由など、様々な自由を当
然のように謳歌してきた。しかし、その自由を獲得するま
でには、本作のような過酷すぎる道程があったことを決
して忘れてはなるまい。 転載終了
正直言って、
観た後はキリシタンの信徒や宣教師たちに
対するあまりの迫害の惨さに、
いやぁ~~~~グッタリ疲れました。
これは真宗の鹿児島のかくれ念仏者にも
同じことが言えるのでしょう。
この「沈黙」のストーリーを観て感じたことは、
キリスト教であろうと、仏教であろうと、外なる神を一心に祈り、
神の恩寵や奇跡という明確な「形」で神を見出そうとする信徒や
宣教師たちの神は「沈黙」し、その神への思いは裏切られていく
ということ。
しかし、
じっと心を澄ませて、
自分の心を深く内観していくことによって、
神は見えない「沈黙」の中にこそ宿っているということ。
実はロザリオでも、踏み絵の聖母マリアでも、十字架でも、
祈りでもなく、神は常に自らと共にあるんだと
体感実感できれば、
その安心の実感こそが神の恩寵であり、
奇跡になりえる・・。
それが本当の純粋な信仰なのです。
これは仏もまったく一緒です。
イエズス会の宣教師たちが
信徒の拷問や処刑に葛藤し、
そうさせないためにキリスト教を棄教していき、
その後自らの葛藤の中で神を自分の内側に見いだせた。
方便の世界から真実の世界へ三願転入みたいな
信仰の深さに入っていったのです。
最後は仏教的な葬式で
荼毘に付された宣教師の手の中には
日本人の奥さんが守り刀と共に入れてくれた
小さな十字架が寄り添っていました。
どんなに自分の信仰を迫害され棄教させられても
宣教師の彼は神と共に生き、神と共に死んでいけた。
信仰の究極の姿がそこにはありました。
と同時に、ほんとうの信仰の姿が・・。
結局、
外に向かっての外在信仰って弱い。
いつもほんまに自分のことを救ってくれるのか?
っていう疑いや不安が晴れない。、
そうじゃなくて、
いつも自分とともにあるという内在信仰は人を強くする。
結局、他力とは仏力。その仏力が私を生かして
その仏力と共に私は生きているということだからね。
それが実感できると、世間や人の目を気にせず
とっても安心して強く生きていける。
すべての方便が必要なくなる。
だから素の自分、シンプルで感じて動く自分を
ストレートに生きていける。
ただ、そういったホンマのことを
スラスラ語らせるほどの軟な内容ではなく、
こんなんやったらたぶん私は気がくるってるかもしれない・・
と思うほどの騒然で過酷で残酷な歴史事実がそこにはありました。
たから観終わったらグッタリだったです。
夢にまで出てきましたからねぇ、
「パードレ(神父さん)という言葉」とキリシタンを惨殺していく
えげつない映像が・・。
だからいまの時代の日本に
生まれることができて大感謝です。
・・・・・・・・・・・・
明日は東京都内のウォータークリーニングのお仕事があるお蔭で、
東京国立博物館で開催されている「特別展 春日大社 千年の至宝」
と、日本橋高島屋で開催されている「生誕90年 加山又造展〜生命の煌めき」
に行ってきます。
※明日の仏婦彼岸法要はよろしくお願いします。
朝枝さんにくれぐれもよろしくお伝え下さい。
07:48, Saturday, Mar 04, 2017 ¦