トップページ
2015年10月30日

「亡父がつくった生徒会の歌」10/30(金)
「お父さん、
志和中の生徒会の歌を作詞作曲した中田輝之さん
って、亡おじいちゃんのことが中国新聞に掲載されるとるよ。

地域の皆さんはこの記事を見て、
私も志和中時代に中田先生に教えてもろうた。
ほんまにええ先生じゃったぁって、言よっちゃったよ。」
と、嫁さんから電話がありました。


「ほうかあ・・・お父ちゃんはほんまにええ人じゃったけえ。
そりゃあ皆さん懐かしがっちゃったじゃろう。」
ふと、愉快でひょうきんな父のことを思いだしますねえ。


父が生きているうちは
まさに、随分がんぼ(やんちゃ)ばかりをして
生きてきたばか息子です。

ただ、父が亡くなって良いも悪いも
いろんな体験や経験をしてきた今、
お浄土から見てもらってて
父が喜ぶ生き方こそが父に対して何よりの供養であり、
中田家や父の実家の森家の先祖の供養でもあると思っています。

供養とは人共に養われると書きますが、まさに先祖と
共に喜びを共有できることがなにりより一番の供養です。


さて、現在会社の中のモノの流れを
シンプルになるよう変化させていこうとしています。


そういった中で、
どうしてもすぐに行動を起せない人がいます。
そういう人たちの共通点が、なにかにつけて「先送りする悪い癖」がある、
ということなのです。


部屋の掃除や整理整頓も、
仕事も、人間関係も、頭の中の考え方も、
あらゆることに「あとでやる」という「先送りの箱」をつくって、
その箱の中になんでもポイポイため込んでいるのです。
そして「後からね・・」。その時点でムリです。


つまりそういう人は
自分は何でも「先送りしている」という認識をまったく
持っていません。「先送り」が当たり前になっている。
生活の一部にすらなっている。
そのことに気づかない限り、
何も根本的な改善ができないのです。


まあ、「私は先送り人間なんだ」と自覚できたとして、
まずその人の変化ポイントは、
「今度から」「後から」を、「今から」「今すぐ」に変化させること。
「今から」「今すぐ」と「今度から」「後から」が、すぐやるかとうかの
大きな分かれ目です。


この「今から」「今すぐ」をしっかり決めて、すく゜行動する。
ただ、「先送り」の怠惰クセがついた人に、「今すぐ」の
「感じたら即行動クセ」をつけるのは、メチャクチャ難しいです。


物凄いクレームをもらってメチャクチャ落ち込んで
「今のままではヤバイ!自己改善しないと!!」と強烈に思っても
三日もたてば忘れてまた「先送って」る。
これが現実です。


自分の悪いクセを良いクセに変えるためには、
魔法の方法なんてまったくありません。、
本当に弱い自分に打ち勝って頑張るしかない。
ただその時一人だとやはり弱さに負けて
またまた「先送り」の「言い訳」クセにリターンしていく
ケースがほとんどです。


だから、
うちの会社のように歯に衣をきせぬように、
ズバズバと相手に本当のことをストレートに言ってやる
本当の仲間が必要なのだと思います。
それは、根本的にその人の脱皮と成長を
願っているからのズバズバだからです。


私もリーダー学で
部下に対してのいろんな心理学的なアプローチを
学んできましたが、結局はと゛れもこれも根本療法
にはなりません。対処療法で終わってしまいます。


やはり、
チームの一員として相手の「いのち」を
認め、受け入れ、共に頑張ろうとすればするほど、
本気で相手に伝え続けるしかないと、感じています。
後は、その人がどの時点で
自分の姿に気づけるかどうか。
自分のいたらなさに深くうなずけるかどうか、なのです。


私は、浄土真宗の坊さんなのですが、
こういった職場の中で人間が本当に出遇うということは
どういうことなのかを真剣に考えます。
「いのち」と「いのち」の出遇いというのは言葉では簡単
ですが、なかなか難しい。


その時、その時、自分の都合で職場の仲間を利用し、
また反対に職場の仲間から利用されているだけという
悲しい在り方になっていたとしたら、とても悲しいことです。


利用できる間は利用し、利用価値がなくなると捨てる。
案外世の中はそうなっています。


私たちは家族、夫婦、親子、であっても本当に
「いのち」と「いのち」の出遇いをしているのでしょうか。
ただその時その時、自分の都合で家族を道具として
使っているのだとすれば、これまたおかしなことです。


本当の「いのち」の出遇いは、「聞こえる」ということがあっての
出遇いです。何が聞こえるのか。相手の根底というか、心からの
思いというか、本音が聞こえる時が相手との本当の出遇いです。


父が亡くなって母がお仏壇の前でポツリと、
「ああ、いろんなことがあったけど、お父さんは一番人のことを
大切に思っていたんだよなあ・・。私の事も・・」と、相手の腹底が
聞こえた時に、「ああ、いい、いのちと出遇ったなあ、いい人と
出遇ったなあ」となるんです。


それが相手のいのちと出遇う、ということです。


ですから、うちの会社でもいろんなことがありますが、
叱ったり、褒めたりということが本質じゃなく、やはりクレームや
様々な出来事を通して、相手に素直な自身のいのちを取り戻してほしいと
心から「願う」ということ。


少しでも自分の我の強い姿をあきらかに認めて、
そして我の強い傲慢な自分を認めて、そこから一歩を踏み
出し改善行動を開始しようとすること。


まず、この我の強い傲慢な自分の姿を
認めない限り、実は何も始まりません。
何も生まれていきません。
いくら一時的に変わったように見えても
根本的な気づきがないので
やはり何も変化していかないのです。


「自分は確かだ」、「自分のやってることは正しい」、
「私は間違いがない」という自我力にしがみついて、
そこで頑張って生きているのが私たちの姿なんです。
この思いに居直ってるのが我執です。


その我執に執着していること、
「そうじゃなかった。みんなの力に生かされていたんだ」
と気づくってこと。それは自分をいつも見守ってくれる
温かい存在、自分の良心に気づくこと。真実を生きようとする
仲間にに気づくことじゃあないかって、私は思っています。

2015(私の父は本当に人のことを思やれる人でした。だからみんなから慕われました)

そのことがわかれば先手必勝。自分から感じて動くのが
楽しくなってきます。そして少して゛も恩を返したいって
思えるようになっていきます。

相手の本当のいのちに出遇っていくことですね。
仕事という方便を通して。

07:39, Friday, Oct 30, 2015 ¦ ¦ コメント(0)


2015年10月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
本日   221
昨日   437
累計   508283