「真宗は動詞」9/29(月)
今日の午前11時から信楽峻麿先生のお葬儀が呉市の安楽寺
でお勤めされます。
副住職が昨日のお通夜の様子をブログで書いていましたが、
信楽先生の最後の、「真宗は物(いい話)のことを言うのではな
い。動詞(,念仏の実践道)である」という言葉がストレートに伝わ
ってきました。
本日、信樂先生の死去に関する記事をネットで検索していまし
たら、「・・・・その通り」。とても共感を得るブログ内容がありまし
たので下記転載しておきます。
信楽峻麿『親鸞とその思想』
(真宗って仏教だったんだ……力から道へ≫ブログより転載
■[本の話題]信楽峻麿『親鸞とその思想』(真宗って仏教だっ
たんだ……力から道へ) 信楽峻麿『親鸞とその思想』(真宗っ
て仏教だったんだ……力から道へ)を含むブックマーク 信楽
峻麿『親鸞とその思想』(真宗って仏教だったんだ……力から
道へ)のブックマークコメントCommentsAdd Startouryuuuan
サンガ新刊の校正など。グツグツ煮えた。
在家仏教 2008年 04月号 [雑誌]
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出版社/メーカー: 在家仏教協会
発売日: 2008/03/03
メディア: 雑誌
クリック: 1回
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『在家仏教』2008年04月号に信楽峻麿(元龍谷大学学長)
の「浄土に往生するということ」とゆー講演録が載っていて、
これがなかなか面白かった。真宗なのに仏教的なことを言
っている。
端的に言えば「信」と「念佛」の捉え方が仏教的なのだ。は
っきり言って浄土真宗は、仏教というより「日本の新興宗教」
というのが僕の評価だった。
だから批判する必要もない。そもそも仏教とは別の教えだ
から、というスタンスだった。しかし、信楽峻麿のような教学
理解であれば、浄土真宗も「仏教」の仲間として認識しうる。
そっか、親鸞の教えでも「仏教」できるのか、というのは正直、
驚きだった。(ケネス・タナカ師の本でもその辺はピンと来な
かった)
親鸞とその思想
親鸞とその思想
作者: 信楽峻麿
出版社/メーカー: 法蔵館
発売日: 2003/10
メディア: 単行本
クリック: 16回
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そこで信楽の著書『親鸞とその思想』を取り寄せて読んだみ
た。
これも四つの講演録なのでたいへん読みやすいが、彼は本
願寺派で異安心(異端)として弾圧された石泉学派の流れを
汲んでいるそうだ。しかし仏教的には信楽の立場が正統であ
る。信楽峻麿を異安心とするなら、真宗は「非仏教」である。
そのくらい明々白々に論理的に正しいことを言っている。信
楽の提唱する「まことの真宗」とは以下のような教えだ。
一、阿弥陀仏とは、象徴的な存在であって、それを実体的な
存在として捉えてはならない。
二、真宗における信心とは、一元的主体的な「めざめ体験」
であ って、それは二元的対象的に理解されるべきでは
ない。
三、真宗とは、道の宗教であって、それを力の宗教として理
解してはならない。
また、他力とは「縁起」への気づきである(大意)とも述べて
いる。
信心とは「心が澄んできれいになる」(チッタ・プラサーダ)で
あり、念仏とは心を清らかにする(自浄其意)行である、とも
している。
だから信心というのは、親鸞聖人は基本的に心が澄んでく
ること、心がきれいになることだといいます。そしてそのこと
は智慧がひらけてくることであり、仏に成るべき身になること
だというのです。
何かに対して信じるのではないのです。親鸞聖人は、手紙や
和文では二元的に「本願を信じる」などと書いておりますが、
「信巻」では、何かに対して信じるということはどこにもいって
はおりません。基本的には、この「疑蓋雑わることなし」という
ことを繰り返していっているのです。
だから真宗における信心とは、何かに向けられた、対象的な
心的態度をいうのではなくて、まったく主体的な心のありよう、
心的態度をいうわけで、それは明らかに正定聚、不退転位ま
での、煩悩が破られ、転じられることなのです。だったら、宗
派は違っても「仏教」だと思うよ。
信楽峻麿は僕の真宗観を塗り替えてくれた(まぁ、真宗のな
かでも超少数派かもしれないが……)。広島に向かって合掌。
(転載終了)
書かれている内容は、「まあねえ、その通りなんですけど。」
です。
信楽先生と父は従妹ですので、親戚の一人としてとても親し
くさせていただき、真宗や仏教の要とは何か」をわかりやす
く教えていただきました。
そして、お説教の度に申されていたことは、上記の通り。ま
さに念仏者として、「いま、ここ」を浄土に向かってどう主体的
に生きるのかを、いつも熱く語ってくださいました。まさに観念
論ではなく実践論として。
僕が住職でありながら、一つの会社を引き受けたのも、念仏
者の一人として、理想を目指して浄土への道を、経営という
超現実レベルでどう瞬間瞬間選択し生きていくのか?まさに
「真宗信心の社会性」の大いなる実験でもありました。
その結果、経営という超現実レベルの現場で、理想と現実の
ギャップに悩み、自分の「甘さ」や「弱さ」に苦しみ、しかし、お
念仏の導きによって、経営そのものが「生かされて生きる」こ
とへ感謝のパワーへと大きく転換されていきました。
そして、あらためて信楽先生が常に熱く語られている仏教と
しての真宗のすばらしさに気づくこともできたわけです。
と共に、俗の中に住みながら、どれほど真実を大切にし、そ
の真実に向かって生きているかのか?
まさに信楽先生が常に言われていた、「俗の中にどれだけ真
が突き刺さっているか、貫徹しているのか。さらに言えば、俗
についての痛みと僧に対する願いが、どれほど一つに重なっ
ていくかという生きざまをしているのか。」を常に現場では問わ
れていきます。
信心とは、チッタプラサーダ。心が澄んできれいになっていくこ
と。そのことによって智慧がひらけてくること。まさにそうでない
限り、本当の経営はできませんし、人を生かすことも、技術や
サービスを高めて人を喜ばせることも、また宗教的人材教育
を通して組織を育むこともできないのです。
実践を通して体験してきた人ほど、理想を求めて真剣に生き
て苦しんできた人ほど、信楽先生の語られてきた真宗の教え
が、ストレートに入ってくるはずです。
それは二元論ではなく一元論だから。観念論ではなく実践論
だから・・・。
まさに周りの人たちはどうあろうが、自分はどう生きるべきな
のか?常に仏の心に真実を問う、分かりやすく言えば、自身の
良心に問うて行動していくのが「真宗は動詞」ということなので
す。
●かくして、仏教を学び、仏道を生きるものは、自己自身が脱皮、成長を
遂げて、まことの自立、自由をうるとともに、たとえわずかでも、このような
仏国、浄土の姿を、この現実の社会に創出していくための営みをすすめる
べきである。「念仏者の道」箸:信楽峻麿より抜粋
なんまんだぶつ。
生かしていただいて ありがとうございます。
でお勤めされます。
副住職が昨日のお通夜の様子をブログで書いていましたが、
信楽先生の最後の、「真宗は物(いい話)のことを言うのではな
い。動詞(,念仏の実践道)である」という言葉がストレートに伝わ
ってきました。
本日、信樂先生の死去に関する記事をネットで検索していまし
たら、「・・・・その通り」。とても共感を得るブログ内容がありまし
たので下記転載しておきます。
信楽峻麿『親鸞とその思想』
(真宗って仏教だったんだ……力から道へ≫ブログより転載
■[本の話題]信楽峻麿『親鸞とその思想』(真宗って仏教だっ
たんだ……力から道へ) 信楽峻麿『親鸞とその思想』(真宗っ
て仏教だったんだ……力から道へ)を含むブックマーク 信楽
峻麿『親鸞とその思想』(真宗って仏教だったんだ……力から
道へ)のブックマークコメントCommentsAdd Startouryuuuan
サンガ新刊の校正など。グツグツ煮えた。
在家仏教 2008年 04月号 [雑誌]
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出版社/メーカー: 在家仏教協会
発売日: 2008/03/03
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『在家仏教』2008年04月号に信楽峻麿(元龍谷大学学長)
の「浄土に往生するということ」とゆー講演録が載っていて、
これがなかなか面白かった。真宗なのに仏教的なことを言
っている。
端的に言えば「信」と「念佛」の捉え方が仏教的なのだ。は
っきり言って浄土真宗は、仏教というより「日本の新興宗教」
というのが僕の評価だった。
だから批判する必要もない。そもそも仏教とは別の教えだ
から、というスタンスだった。しかし、信楽峻麿のような教学
理解であれば、浄土真宗も「仏教」の仲間として認識しうる。
そっか、親鸞の教えでも「仏教」できるのか、というのは正直、
驚きだった。(ケネス・タナカ師の本でもその辺はピンと来な
かった)
親鸞とその思想
親鸞とその思想
作者: 信楽峻麿
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発売日: 2003/10
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そこで信楽の著書『親鸞とその思想』を取り寄せて読んだみ
た。
これも四つの講演録なのでたいへん読みやすいが、彼は本
願寺派で異安心(異端)として弾圧された石泉学派の流れを
汲んでいるそうだ。しかし仏教的には信楽の立場が正統であ
る。信楽峻麿を異安心とするなら、真宗は「非仏教」である。
そのくらい明々白々に論理的に正しいことを言っている。信
楽の提唱する「まことの真宗」とは以下のような教えだ。
一、阿弥陀仏とは、象徴的な存在であって、それを実体的な
存在として捉えてはならない。
二、真宗における信心とは、一元的主体的な「めざめ体験」
であ って、それは二元的対象的に理解されるべきでは
ない。
三、真宗とは、道の宗教であって、それを力の宗教として理
解してはならない。
また、他力とは「縁起」への気づきである(大意)とも述べて
いる。
信心とは「心が澄んできれいになる」(チッタ・プラサーダ)で
あり、念仏とは心を清らかにする(自浄其意)行である、とも
している。
だから信心というのは、親鸞聖人は基本的に心が澄んでく
ること、心がきれいになることだといいます。そしてそのこと
は智慧がひらけてくることであり、仏に成るべき身になること
だというのです。
何かに対して信じるのではないのです。親鸞聖人は、手紙や
和文では二元的に「本願を信じる」などと書いておりますが、
「信巻」では、何かに対して信じるということはどこにもいって
はおりません。基本的には、この「疑蓋雑わることなし」という
ことを繰り返していっているのです。
だから真宗における信心とは、何かに向けられた、対象的な
心的態度をいうのではなくて、まったく主体的な心のありよう、
心的態度をいうわけで、それは明らかに正定聚、不退転位ま
での、煩悩が破られ、転じられることなのです。だったら、宗
派は違っても「仏教」だと思うよ。
信楽峻麿は僕の真宗観を塗り替えてくれた(まぁ、真宗のな
かでも超少数派かもしれないが……)。広島に向かって合掌。
(転載終了)
書かれている内容は、「まあねえ、その通りなんですけど。」
です。
信楽先生と父は従妹ですので、親戚の一人としてとても親し
くさせていただき、真宗や仏教の要とは何か」をわかりやす
く教えていただきました。
そして、お説教の度に申されていたことは、上記の通り。ま
さに念仏者として、「いま、ここ」を浄土に向かってどう主体的
に生きるのかを、いつも熱く語ってくださいました。まさに観念
論ではなく実践論として。
僕が住職でありながら、一つの会社を引き受けたのも、念仏
者の一人として、理想を目指して浄土への道を、経営という
超現実レベルでどう瞬間瞬間選択し生きていくのか?まさに
「真宗信心の社会性」の大いなる実験でもありました。
その結果、経営という超現実レベルの現場で、理想と現実の
ギャップに悩み、自分の「甘さ」や「弱さ」に苦しみ、しかし、お
念仏の導きによって、経営そのものが「生かされて生きる」こ
とへ感謝のパワーへと大きく転換されていきました。
そして、あらためて信楽先生が常に熱く語られている仏教と
しての真宗のすばらしさに気づくこともできたわけです。
と共に、俗の中に住みながら、どれほど真実を大切にし、そ
の真実に向かって生きているかのか?
まさに信楽先生が常に言われていた、「俗の中にどれだけ真
が突き刺さっているか、貫徹しているのか。さらに言えば、俗
についての痛みと僧に対する願いが、どれほど一つに重なっ
ていくかという生きざまをしているのか。」を常に現場では問わ
れていきます。
信心とは、チッタプラサーダ。心が澄んできれいになっていくこ
と。そのことによって智慧がひらけてくること。まさにそうでない
限り、本当の経営はできませんし、人を生かすことも、技術や
サービスを高めて人を喜ばせることも、また宗教的人材教育
を通して組織を育むこともできないのです。
実践を通して体験してきた人ほど、理想を求めて真剣に生き
て苦しんできた人ほど、信楽先生の語られてきた真宗の教え
が、ストレートに入ってくるはずです。
それは二元論ではなく一元論だから。観念論ではなく実践論
だから・・・。
まさに周りの人たちはどうあろうが、自分はどう生きるべきな
のか?常に仏の心に真実を問う、分かりやすく言えば、自身の
良心に問うて行動していくのが「真宗は動詞」ということなので
す。
●かくして、仏教を学び、仏道を生きるものは、自己自身が脱皮、成長を
遂げて、まことの自立、自由をうるとともに、たとえわずかでも、このような
仏国、浄土の姿を、この現実の社会に創出していくための営みをすすめる
べきである。「念仏者の道」箸:信楽峻麿より抜粋
なんまんだぶつ。
生かしていただいて ありがとうございます。
13:27, Monday, Sep 29, 2014 ¦ ¦ コメント(0)