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2019年 5月26日

「爽やかな人権感覚」5/26(日)
今日も暑くなるのでしょうが、

相変わらず朝の5時から会社の近くにある

「大道沢公園遊歩道」を散歩しました。


この約30分のコースを朝夕歩くわけですが、

朝や夕の気持ちの良い空気の冷たさや、

鳥の鳴き声、木々の葉っぱの美しさ・・・・。



「ああ、一切の森羅万象に生かされてるなあ。

生かされているからこの心臓も体も動かせて

もらっている。

日々の生活の中で感動や感謝を

味合わせてもらってる。ありがたいよなあ・・」と、

自然と感謝の念仏が出てきます。



「爽やかな人権感覚」


「親しければ親しいほど礼儀がいる」


これは人権問題に真剣に取り組んだ

恩師から教えられたことです。


そして今も常に自分の心の中で人に対する時に

言い聞かせている言葉です。



人間は、
この「いのち」の尊厳を失っていくと、

途端に自我の虜となり、様々な問題が起こって

きます。



人間は似たもの同士の言葉のように同じような同類が寄ります。

人間の持つ性として同類同士はつるみ、

別物をいじめる訳です。



ただ、

いじめた同類やその人は、いじめた分だけ、

未来の幸運を失い不幸を積極的に

引き寄せていきます。

これは遺伝子の繋がっている

家族にも影響して不幸を引き寄せていきます。



とにかく自分が行った分は、善も悪もその反射を受けます。

この世に逃げ得は無いのです。

もしもそんないじめや差別、

または怒りによって自我の感情に任せて

相手のいのちを撲殺していくのならば

死んでもあの世に実に大きな負の因果を持ち越すだけで、

特に人を虐めたり、

人のいのちを破壊しようとした人は

因果の道理として死んだらとても怖ろしい火の車が迎えに来ます。



考えてみれば、

私は昔から人と群れるのが嫌で

常に一匹狼で生きてきたように思います。



ここに集まってきた

主なメンバーもそういう感じです。

ただ集まってきていても群れない。

群れることなくお互いが良い成長の刺激となって

自身の自我の昇華と自身の役割を謙虚に担えば、

自分のいのちが求めて来た人生を生きていったといえます。



常にすべの問題は人や環境でなく

自分の問題としてとらえていく。



なんだかんだといろいろありますが、

レベルの差はあれどもそういった素直で正直な生き方が

好きな人たちが私の回りには自然と集まって来ています。



「他の人のためお役に立つ生き方をしたい」

そういう人たちの集まりでいたい。

そのためのウォータークリーニングでありたいと

今日の早朝散歩の清々しい朝

、あらためてそんなことを思っていました。



兵庫の伸ちゃんにしても、私にしても、

単純にそうなのですが、

随分誤解を受けて世間的には変わり者としての

レッテルを張られてきたように思います。



結局、

他の人より「この人に幸せになってほしい」という

情が強いのです。



クールでダンディではない。

こてこての大阪のおばちゃんみたいな、

ほっておけない気持ちが強いのです。

いつもそれで相手と対峙して「・・??」、

結局は「ああ・・・」落胆し苦しみますが、

そのショック体験によって本当の智慧とは

人を愛し、人を生かし、人を育むとは何かを学んでいきます。



「愛の反対は無関心である」と言われたのは、

あの、マザーテレサです。



人間がこの世に生まれるということは、

自身の自我(貪欲・怒り・愚痴)を昇華(薄く)して

本当のいのちの歓びを感じる

仕合せな生き方をする権利があります。



そういう生き方を生きてほしい、

それが神仏の願いであるわけです。



少しでも、


神仏の手足になれればっていますのが

正直な気持ちですねえ・・・・・。

06:15, Sunday, May 26, 2019 ¦ ¦ コメント(0)