「自分で自分を試している」12/25(火)
私たちは、それぞれの環境で生きています。
各人の持つ悩みも、喜びも違います。
よく考えてみることがあります。
今目の前にある悩みが消えたとしたらも
自分は本当に幸せになっているのだろうか?
現実には、目の前の悩みがなくなり、
自分の願望を叶えたとしても、また別の悩みを見つけて
真剣に悩んでるでしょう。
願望には終わりがない。
いくら願望が叶ったとしても、また次の欲求、
願望が出てきます。
これはこの世に生きる間、
人間の自我が持ってしまうトリック、錯覚なのだと思います。
手に入れても手に入れても、
餓鬼のように次の願望や欲求を手に入れようとする。
さのトリックや錯覚から目を覚まさせるためには、
今の現状の中で、小さな喜びを見つけようとする前向きな
姿勢、感謝の気持ちが、このトリック、錯覚を消す働きをすると
お釈迦さまはおっしゃっています
これは現状に甘んじるという小さな考えではなくて、
現状を受け入れて、その中でも感謝するべき視点に気づけると、
発生すものがあるのです。
それに気づければ、感謝が湧いて
今よりも頑張ることができるのです。
昨日はクリスマスイブで
仏教者の私としては関係ない日でもあります。
が、巷にはイルミネーションが飾られ、音楽は
クリスマスメドレーか゜流れとても心が軽くなります。
昨日は父の命日でした。
父は日赤に入院していましたので
各病棟を聖歌隊がキャンドルを灯して回りました。
歌は「清しこの夜」でした。
父は肺がんで
鼻にチューブを入れたまま、
聖歌隊の「清しこの夜」を聞きながら
「ええ曲じゃのう・・」と呟きました。
父は仏教者ですが、
聖歌隊の清らかな声と歌、
そして聖火の灯に美しさに
感動を覚えたのだと思います。
美しいものは美しい
いいものはいい、人間の純粋な
思いと感覚がそこにはありました。
そして朝方、
みんなに看取られながら
父は72歳の若さでお浄土に還りました。
そんなことを思い出しながら、
私は北子安庵の住人たちのために
ささやかなクリスマスメニューを用意しておきました。
そえやって用意している自分が
とても仕合わせに感じていました。
この世で生きる間、
自分自身の大きな障害となることがあります。
それは、他人との比較であり、先ほど言いました
絶え間なく出てくる欲求や願望の数々です。
他人との比較は、他人が持つ幸福感の基準に、
自分を合わせては比較していきます。
これは空しいと思います。
人間は一人で生まれ、最後は裸で何も持たず
一人で死んでいくといしう道理は、
「自分だけを、自分の本質だけを見つめなさい」
という真理でもあると思います。
生まれてから、
この世という人生の旅で出会う家族や仲間は、
自分が持つ特性や可能性を発露させるために、
目の前に現れてくれているのだと思います。
自分に子どもが生まれたり、部下を持つのは、
自分の母性を試されているわけであって、
お互いが刺激し合い、学び合って、大いなる共通した
一つの母性、それを阿弥陀の世界とか、浄土とか私たちは
言いますが、それも一つの言い方であって、
大いなる母性の海に還ることを
目指していることは間違いありません。
これは宗教、宗派を超えてです。
明日に仕合せになるではなく、
つきなみだけど、今、すでに仕合わせだって感じて
おれるかどうかですね。
そう思えればまた
頑張れます。
来年は基本を見直し、
2020年の飛翔の年に向けての準備を
より具体的に行う年です。
いつこの世を去ってもいいように
感謝とともに頑張らないと。
各人の持つ悩みも、喜びも違います。
よく考えてみることがあります。
今目の前にある悩みが消えたとしたらも
自分は本当に幸せになっているのだろうか?
現実には、目の前の悩みがなくなり、
自分の願望を叶えたとしても、また別の悩みを見つけて
真剣に悩んでるでしょう。
願望には終わりがない。
いくら願望が叶ったとしても、また次の欲求、
願望が出てきます。
これはこの世に生きる間、
人間の自我が持ってしまうトリック、錯覚なのだと思います。
手に入れても手に入れても、
餓鬼のように次の願望や欲求を手に入れようとする。
さのトリックや錯覚から目を覚まさせるためには、
今の現状の中で、小さな喜びを見つけようとする前向きな
姿勢、感謝の気持ちが、このトリック、錯覚を消す働きをすると
お釈迦さまはおっしゃっています
これは現状に甘んじるという小さな考えではなくて、
現状を受け入れて、その中でも感謝するべき視点に気づけると、
発生すものがあるのです。
それに気づければ、感謝が湧いて
今よりも頑張ることができるのです。
昨日はクリスマスイブで
仏教者の私としては関係ない日でもあります。
が、巷にはイルミネーションが飾られ、音楽は
クリスマスメドレーか゜流れとても心が軽くなります。
昨日は父の命日でした。
父は日赤に入院していましたので
各病棟を聖歌隊がキャンドルを灯して回りました。
歌は「清しこの夜」でした。
父は肺がんで
鼻にチューブを入れたまま、
聖歌隊の「清しこの夜」を聞きながら
「ええ曲じゃのう・・」と呟きました。
父は仏教者ですが、
聖歌隊の清らかな声と歌、
そして聖火の灯に美しさに
感動を覚えたのだと思います。
美しいものは美しい
いいものはいい、人間の純粋な
思いと感覚がそこにはありました。
そして朝方、
みんなに看取られながら
父は72歳の若さでお浄土に還りました。
そんなことを思い出しながら、
私は北子安庵の住人たちのために
ささやかなクリスマスメニューを用意しておきました。
そえやって用意している自分が
とても仕合わせに感じていました。
この世で生きる間、
自分自身の大きな障害となることがあります。
それは、他人との比較であり、先ほど言いました
絶え間なく出てくる欲求や願望の数々です。
他人との比較は、他人が持つ幸福感の基準に、
自分を合わせては比較していきます。
これは空しいと思います。
人間は一人で生まれ、最後は裸で何も持たず
一人で死んでいくといしう道理は、
「自分だけを、自分の本質だけを見つめなさい」
という真理でもあると思います。
生まれてから、
この世という人生の旅で出会う家族や仲間は、
自分が持つ特性や可能性を発露させるために、
目の前に現れてくれているのだと思います。
自分に子どもが生まれたり、部下を持つのは、
自分の母性を試されているわけであって、
お互いが刺激し合い、学び合って、大いなる共通した
一つの母性、それを阿弥陀の世界とか、浄土とか私たちは
言いますが、それも一つの言い方であって、
大いなる母性の海に還ることを
目指していることは間違いありません。
これは宗教、宗派を超えてです。
明日に仕合せになるではなく、
つきなみだけど、今、すでに仕合わせだって感じて
おれるかどうかですね。
そう思えればまた
頑張れます。
来年は基本を見直し、
2020年の飛翔の年に向けての準備を
より具体的に行う年です。
いつこの世を去ってもいいように
感謝とともに頑張らないと。
18:33, Tuesday, Dec 25, 2018 ¦ ¦ コメント(0)