「和合の武道」7/13(金)
今日の朝、
合気会君津道場に行って、
奥様に挨拶し、亡榎本先生のご仏前にお参りしてきました。
やはりこの道場は
榎本ご夫婦の人間愛といいますか、
お二人の人間的魅力で成り立っていた道場のように思います。
生前、榎本先生は
植芝盛平さんとはとても魂的なつながりがあったと、
おっしゃていましたが、武道家の達人にはテングの人が多い
のですが、植芝さんや榎本先生は、それらとは一線を画した、
神仏を中心とした愛の人であったのではないかと思います。
それゆえ、
とても相手と当たるのを嫌われました。
それよりも、”合気道の極意は、その場の空気の変容に有り” と
いう感じでした。相手と向き合った時に、
組する前に勝負の結果が既に有るようです。
その場の空気を、自分の気から発せられる
磁気の色に染められたら、後は何を取っ組み合おうが、
自分の土俵なので、相手は倒されます。
これは相手を倒そうとする戦いの気を出すのではなく、
自身の和合する良心発露して来ると、無意識にトラブルを避け
る事が出来る、相手と一つとなった状態になる、
そういった和合の武の道を榎本先生はお弟子さんたちに
生涯を通して、そして、病気になっても残された気力を振り絞って
熱く伝えていこうとされていたのではないかと思います。
が、
当時はまだまだ相対的な空手の戦いの気が強く、
僧侶でありながらも負けず嫌いの性によって
そのような和合の武の道が物足りのせんでした。
ただ゛、それに加えて仕事が忙しすぎました。
今日、
ご仏前にお参りさせてもらいながら、
榎本先生の本当の意図する合気道が
あらためて当時はまだ理解できていなかったことが
はっきりとわかりました。
と、同時に、
そのことがとても胸が痛く、
奥様より榎本先生が私のブログを日々読んでくださっていたとお聞きし、
とても傲慢だった自分を反省し
とても切ない思いが込み上げてきました。
奥様は、
今後道場のことに関してはまったく白紙で、
何も浮かんでこないとおっしゃていましたし、
「もう歳だし。女だし。やり尽くしたし。もう・・・」
と言っておられました。
榎本先生もそのことを考えて、お弟子さん一人ひとりに
「ここを出てやる場所を見つけなさい」と生前に言われたのだと思います。
残される責任感の強い奥様の事を考えればこその言葉でしょう。
ただ実際は、榎本ご夫婦、
現在は奥様あっての合気会君津道場です。
お弟子さんたちも、奥様という神輿を担いでその手足になってこそ、
ご自身たちがより指導者として輝いていかれるでしょう。
法子さんも、
帰りの車の中で「おばあちゃん先生(奥様)がいなかったら
続けては通っていなかったと思う」と言ってました。
考えてみれば私もそうでした。
(生前の榎本先生)
私は高校、大学とも空手部でしたから、
それはそれは技術を追求した厳しい稽古の毎日でした。
ただ町道場には町道場の特性があります。
それは仕事を持った老若男女の会員が、健康維持のため、護身のため、
武道が好きだから・・・と、それぞれの目的をもって道場に通ってきます。
ただ、その時にとても大切なのはやはりその道場を運営する主たる
人の人徳、人間性です。
自立した大人が安心して道場に通うのは、
特別な技がどうのこうのというよりも、
そういった主たる愛情心のある人徳者がいるのか、
いないのか?そしてその人が心を開いて何でも話せる
人かどうかですね。
とくに女性とか、
歳をとったらそうじゃないかな。
まだまだ榎本先生の四十九日も過ぎてはいませんが、
これからもし君津道場があの場所で再開されるのであれば、
そうあってほしいと強く願いながら
奥様にご挨拶し、
君津道場を後にしました。
合気会君津道場に行って、
奥様に挨拶し、亡榎本先生のご仏前にお参りしてきました。
やはりこの道場は
榎本ご夫婦の人間愛といいますか、
お二人の人間的魅力で成り立っていた道場のように思います。
生前、榎本先生は
植芝盛平さんとはとても魂的なつながりがあったと、
おっしゃていましたが、武道家の達人にはテングの人が多い
のですが、植芝さんや榎本先生は、それらとは一線を画した、
神仏を中心とした愛の人であったのではないかと思います。
それゆえ、
とても相手と当たるのを嫌われました。
それよりも、”合気道の極意は、その場の空気の変容に有り” と
いう感じでした。相手と向き合った時に、
組する前に勝負の結果が既に有るようです。
その場の空気を、自分の気から発せられる
磁気の色に染められたら、後は何を取っ組み合おうが、
自分の土俵なので、相手は倒されます。
これは相手を倒そうとする戦いの気を出すのではなく、
自身の和合する良心発露して来ると、無意識にトラブルを避け
る事が出来る、相手と一つとなった状態になる、
そういった和合の武の道を榎本先生はお弟子さんたちに
生涯を通して、そして、病気になっても残された気力を振り絞って
熱く伝えていこうとされていたのではないかと思います。
が、
当時はまだまだ相対的な空手の戦いの気が強く、
僧侶でありながらも負けず嫌いの性によって
そのような和合の武の道が物足りのせんでした。
ただ゛、それに加えて仕事が忙しすぎました。
今日、
ご仏前にお参りさせてもらいながら、
榎本先生の本当の意図する合気道が
あらためて当時はまだ理解できていなかったことが
はっきりとわかりました。
と、同時に、
そのことがとても胸が痛く、
奥様より榎本先生が私のブログを日々読んでくださっていたとお聞きし、
とても傲慢だった自分を反省し
とても切ない思いが込み上げてきました。
奥様は、
今後道場のことに関してはまったく白紙で、
何も浮かんでこないとおっしゃていましたし、
「もう歳だし。女だし。やり尽くしたし。もう・・・」
と言っておられました。
榎本先生もそのことを考えて、お弟子さん一人ひとりに
「ここを出てやる場所を見つけなさい」と生前に言われたのだと思います。
残される責任感の強い奥様の事を考えればこその言葉でしょう。
ただ実際は、榎本ご夫婦、
現在は奥様あっての合気会君津道場です。
お弟子さんたちも、奥様という神輿を担いでその手足になってこそ、
ご自身たちがより指導者として輝いていかれるでしょう。
法子さんも、
帰りの車の中で「おばあちゃん先生(奥様)がいなかったら
続けては通っていなかったと思う」と言ってました。
考えてみれば私もそうでした。
(生前の榎本先生)
私は高校、大学とも空手部でしたから、
それはそれは技術を追求した厳しい稽古の毎日でした。
ただ町道場には町道場の特性があります。
それは仕事を持った老若男女の会員が、健康維持のため、護身のため、
武道が好きだから・・・と、それぞれの目的をもって道場に通ってきます。
ただ、その時にとても大切なのはやはりその道場を運営する主たる
人の人徳、人間性です。
自立した大人が安心して道場に通うのは、
特別な技がどうのこうのというよりも、
そういった主たる愛情心のある人徳者がいるのか、
いないのか?そしてその人が心を開いて何でも話せる
人かどうかですね。
とくに女性とか、
歳をとったらそうじゃないかな。
まだまだ榎本先生の四十九日も過ぎてはいませんが、
これからもし君津道場があの場所で再開されるのであれば、
そうあってほしいと強く願いながら
奥様にご挨拶し、
君津道場を後にしました。
11:09, Friday, Jul 13, 2018 ¦ ¦ コメント(0)